A石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねさう》。
かなしくよるべなき無智《むち》……

瓦斯《ガス》の点《つ》いた
勧工場《くわんこうば》のはいりくち、
明るい硝子棚、紗《しや》の日被《ひよけ》、
夏は朝から悩ましいのに
花が咲いた……あはれな石竹と釣鐘草《つりがねさう》。

わかい葉柳《はやなぎ》の並木路《アベニユ》、撒水《みづまき》した煉瓦道《れんぐわみち》、
そのなかの小《ちひ》さな人口花壇《じんこうくわだん》、
(疲《つか》れた瞳《ひとみ》の避難所《ひなんしよ》)
その方《はう》二|尺《しやく》のかなしい区劃《しきり》に、
夏《なつ》がきて花《はな》が咲《さ》いた、小《ちひ》さい細《ほそ》い石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねさう》。

絶《た》えず絶《た》えず電車《でんしや》が通《とほ》る……
おしろい汗《あせ》を吹《ふ》く草《くさ》の葉《は》に、
裁縫器《ミシン》の幽《かす》かな音《おと》に、
よせかけた自転車《じてんしや》の銀《ぎん》のハンドルの反射《はんしや》
日《ひ》は光《ひか》り、
かるい埃《ほこり》が薄《うす》い車輪《しやりん》をめぐる……
赤い花、小さい花、石竹と釣鐘草。

さうして女がゆく、
すずしい白《しろ》のスカアト
その手《て》に持《も》つた赤皮《あかがは》の瀟洒《せうしや》な洋書《ほん》、
いつかしら汗《あせ》ばんだこころに
異国趣味《エキゾチツク》な五|月《ぐわつ》が逝《ゆ》く……
新《あたら》しい銀座《ぎんざ》の夏《なつ》、
かなしくよるべなき人工《じんこう》の花《はな》、――石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねくさ》。
[#地から3字上げ]四十三年五月

  六月

白い静かな食卓布《テエブルクロース》、
その上のフラスコ、
フラスコの水に
ちらつく花、釣鐘草《つりがねさう》。

光沢《つや》のある粋《いき》な小鉢の
釣鐘草《つりがねさう》、
汗ばんだ釣鐘草、
紫の、かゆい、やさしい釣鐘草、

さうして噎《むせ》びあがる
苦い珈琲《カウヒイ》よ、
熱《あつ》い夏のこころに
私は匙を廻す。

高※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の日被《マルキイズ》
その白い斜面の光から
六月が来た。
その下の都会の鳥瞰景《てうかんけい》。

幽かな響がきこゆる、
やはらかい乳房の男の胸を抑《をさ》へつけるやうな……
苦い珈琲よ、
かきまわしなが
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