には黄金、酒、毒薬、芸術、女、凡《すべ》てが爛壊《らんえ》に瀕してゐる。一度|彼女《かのをんな》の冷酷なる微笑に魅せられた者は自己の破滅は予期しながら何桙フ間にかひきつけられて了《しま》ふ。そして迷ひ込んだが最後逃れやうたつて離れられるもんぢやない、次第に悪因縁は青い蛇のやうに柔らかに絡みつく、どうせ死ぬまでは白い歯形が霊の底までも喰ひ入らねば放すもんぢやない。
燥々《いら/\》しながら立つて毛布《ケツト》をはたいた、煙草《シガア》の灰が蛇の抜殻のくづるる様にちる、私は熱湯の中に怖々《おづ/\》と身体《からだ》を沈める時に感ずる異様な悪感に顫へながら強ひて落着いた風をして沈《ぢつ》と坐つて見た。品川高輪芝浜を通り越す時分には、私は黒い際立つた建築や車庫や獣類の臭気に腐れたまま倒れかかつてゐる貨物車の影と、その湿つた九時頃の暗碧な夜の空に薄紫の弧灯《アアクとう》がしんみりした光を放つてゐるのを見た。愈《いよ/\》停車場の構内に着いたと思つた時には既に面と向つて驕奢な而《そ》して冷酷な都会にブツツカツてゐたのである。此処には最早《もはや》旅愁をそゝのかされるやうな物売の呼声を聞くことができぬ、意外に空気は急忙《あはた》だしいが厳粛なものであつた、私は押し流されるやうにして、この魔宮の正門に達する大理石の舗石《ペエブメント》の如く、又は、監獄へゆく灰白色の坦道に似た長いプラツトホームを顫へながら急ぎ足に歩いた時の心地は今にも忘れることができない。而《そ》して私が歩行《ある》きながら第一に受けた印象は清潔な青白い迄消毒されてゐる便所から泌み渡つてくるアルボースの臭気であつた。即ち都会の入口の厳粛な匂である。その他、停車場特有の貨物の匂、燻《くゆ》らす葉巻、ふくらかな羽毛襟巻《ボア》、強烈な香水、それらの凡てが私の疲れきつた官能にフレツシユな刺戟を与へたことは無論である。
改札口へ出るとすぐ私は迎へにきてゐた数名の友人から取り巻かれながら、強ひて平気を装ひつゝ正面の階段へ押されて行つた。高貴な人々はここから幾組となく幌馬車を駆つてゆく、俥がゆく、電車がゆく。そしてそれらの行手に電気灯の黄色と白熱瓦斯の緑金色とが華やかに照り耀いてゐる市街が見えた。それが銀座だと教へられたばかり、美くしい『夜』の横顔《プロフイル》を遠くから見たままで、私は暗い烏森の芸妓屋《げいしやゝ》つづき
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