燕の雛が懐かしさうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は広く、店|全幅《いつぱい》の薬種屋式の硝子戸棚には曇つた山葵《わさび》色の紙が張つてあつて、其中ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ正確に、その扉の絵の、眼の青い、そして胸の白い女の横顔のうへに、チクタクと秒刻の優しい歩みを続けてゐた。その戸棚を開けると、緑礬、硝石、甘草、肉桂[#「肉桂」は底本では「肉柱」]、薄荷、どくだみの葉、中には売薬の版木等がしんみりと交錯《こんがら》がつた一種異様の臭を放つ。それはある漂流者がここに来て食客をしてゐた時分密かに町の人に薬を売つてゐたのが、逝《な》くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、旧い話であらう。
 庭には無論|朱欒《ザボン》の老木が十月となれば何時も黄色い大きな実をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戸ばかりの並倉に夏の酒は湿つて悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に樋匠《をけはな》は長閑に槌を鳴らし、赤裸々《あかはだか》の酒屋男は雪のふる臘月にも酒の仕込みに走り廻り、さうして町の水路から樋をくぐつて来る
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