望の曠い平野丈に何らの見るべき変化もなく、凡てが陰鬱な光に被はれる。柳河の街の子供はかういう時幽かなシユブタ(方言|鮑《はえ》の一種)の腹の閃きにも話にきく生胆取《いきぎもとり》の青い眼つきを思ひ出し、海辺の黒猫はほゝけ果てた白い穂の限りもなく戦いでゐる枯葦原の中に、ぢつと蹲つたまゝ、過ぎゆく冬の囁きに昼もなほ耳かたむけて死ぬるであらう。

 いづれにもまして春の季節の長いといふ事はまた此地方を限りなく悲しいものに思はせる。麦がのび、見わたす限りの平野に黄ろい菜の花の毛氈が柔かな軟風に乗り初めるころ、まだ見ぬ幸を求むるためにうらわかい町の娘の一群は笈に身を窶し、哀れな巡礼の姿となつて、初めて西国三十三番の札所を旅して歩く。(巡礼に出る習慣は別に宗教上の深い信仰からでもなく、単にお嫁入りの資格としてどんな良家の娘にも必要であつた。)その留守の間にも水車は長閑かに廻り、町端れの飾屋の爺は大きな鼈甲縁の眼鏡をかけて、怪しい金象眼の愁にチンタンと鎚を鳴らし、片思の薄葉鉄《ブリキ》職人はぢりぢりと赤い封蝋を溶かし、黄色い支那服の商人は生温い挨拶の言葉をかけて戸毎を覗き初める。春も半ばとなつて菜の花もちりかかるころには街道のところどころに木蝋を平準《なら》して干す畑が蒼白く光り、さうして狐憑《きつねつき》の女が他愛もなく狂ひ出し、野の隅には粗末な蓆張りの円天井が作られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車の喇叭のなつかしさよ。
 さはいへ大麦の花が咲き、からしの花も実となる晩春の名残惜しさは、青くさい芥子の萼《うてな》や新しい蚕豆《そらまめ》の香ひにいつしかとまたまぎれてゆく。
 まだ夏には早五月の水路に札の葉を飾りを取りつけ初めた大きな三神丸《さんじんまる》の一部をふと学校がへりに発見した沖の端の子供の喜びは何に譬へやう。艫の方の化粧部屋は蓆で張られ、昔ながらの廃れかけた舟舞台には桜の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も褪せはてたものではあるが、水天宮の祭日ともなれば粋な町内の若い衆が紺の半被《はつぴ》に棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替へ、日を替ゆるたびに歌舞伎の芸題もとり替へて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歓を尽くして別れるものの、何処かに頽廃の趣が見え
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