曼珠沙華のかげから寝ころんで見た小さな視界のひとすじ道を懐しさうに音をたてて軋つて来るまで、私たちは山にゆき谷にゆき、さうしてただ夢の様に何ものかを探し廻つて、もう馴つこになつて珍らしくもない自分たちの瀉くさい海の方へ帰らうとも思はなんだ。
かういふ次第で私は小さい時から山のにほひに親しむことが出来た。私はその山の中で初めて松脂のにほひを臭ぎ、ゐもりの赤い腹を知つた。さうして玉虫と斑猫《はんめう》と毒茸と……いろいろの草木、昆虫、禽獣から放散する特殊のかをりを凡て驚異の触感を以つて嗅いで廻つた。かゝる場合に私の五官はいかにも新しい喜悦に顫へたであらう。それは恰度薄い紗《きれ》に冷たいアルコールを浸して身体の一部を拭いたあとのやうに山の空気は常に爽やかな幼年時代の官感を刺戟せずには措かなかつた。
南関の春祭はまた六騎の街に育つた羅漫的《ロマンチツク》な幼児をして山に対する好奇心を煽てるに充分であつた。私は祭見物の前後に顫へながらどんぐりの実のお池の水に落つる音をきき、それからわかい叔母の乳くびを何となく手で触つた。
底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2004年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全9ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング