に育つた私はかうして不思議にも清らかな清教徒《ピユリタン》としての少年期を了つた。
尤もその僞善的な傾向も長くはなかつた、無意識に壓迫された本然の性情は何時の間にか新らしい反抗の炎を上げた。その苦しい前後に當つて私は激しい神經の衰弱をおぼえた、さうしてただひとり靜かに瞑想し思索する病的な夜の鳥の心になつた。さうして私の少年期の了るころ、常に兄弟のやうに親しんだ友人の一人は自刄して遂にその才氣煥發だつた短い一生の最後を自分の赤い血潮で華やかに彩どつて、たんぽぽのさく野中のひとすぢ道を彼の墓場へ靜かに送られて行つたのである。殘された私はまた陰鬱な、そのなかにいらいらとした赤い戲奴《ヂヤウカア》のやうな心を閃めかす氣の短い感情の激しい二十歳の生活に入つた。さうして若鷲の巣立ちを思はせるやうに忙たゞしく東京をさして上つた。
10
私が十六の時、沖《おき》ノ端《はた》に大火があつた。さうしてなつかしい多くの酒倉も、あらゆる桶に新らしい金いろの日本酒を滿たしたまま眞蒼に炎上した。白い鵞のゐた瀦水、周圍の清らかな堀割、泉水、すべてが酒となつて、なほ寒い早春の日光に泡立つては消防の刺子《さしこ》姿の朱線に反射した。無數の小さな河魚は醉つぱらつて浮き上り、酒の流れに口をつけて飮んだ人は泥醉して僅に燒け殘つた母家《おもや》に轉《ころ》がり込み、金箔の古ぼけた大きな佛壇の扉を剥《は》がしたり歌つたり踊つたりした。私は恰度そのとき、魚市場に上荷《あ》げてあつた葢《ふた》もない黒砂糖の桶に腰をかけて、運び出された家財のなかにたゞひとつ泥にまみれ表紙もちぎれて風の吹くままにヒラヒラと顫へてゐた紫色の若菜集をしみじみと目に涙を溜めて何時《いつ》までも何時《いつ》までも凝視《みつ》めてゐたことをよく覺えてゐる。
その後以前にも優るほどの巨大な新倉が建ち、酒の名の「潮《うしほ》」とともに、一時は古い柳河の街にたゞひとり花々しい虚勢を張つてはゐたものの、それも遂には沈んでゆく太陽の斷末魔の反照《てりかへし》に過ぎなかつた。その十年の短い月日のなかに、廢れてゆくものは廢れ、死んでゆく人は死に、ただひとり古い木版畫の手觸のやうに、殘つてゐた懷かしい水郷の風俗も多くは忘られて、たゞ小さな街に殘つた氣も狹く口先のみ怜悧なあの眼の狡猾《こすつか》らい人士のみが小さな裁判沙汰に生噛りの法律論を鬪はして徒に日をおくるばかり、季節の變るたびに集まつた旅役者も大方は新顏の陋《さも》しい味も風情もないものになつて了つた。さうして食ひつめものの商人は門司、佐世保、大牟田などの新らしい繁華を慕ふて奔り、金齒入れた高利貸は朝鮮にゆき、六騎《ろつきゆ》の活氣ある一團は六十餘艘の小舟に鮟鱇組の旗じるしを翻《ひるが》へしながら遠洋漁業の途にのぼるかして、わかい子弟の東京へゆくものさへ、誰一人この因循な故郷に歸らうとはせぬ。かやうにして街に殘されたものは眞菰|臭《くさ》い瀦水《たまりみづ》に釣を好む樂隱居か、ただ金庫の前に居眠りをして一生を過ごすあの蒼白い素封家の John−John(良家の息子、やや馬鹿にしていふ言葉である。)かで、追ひ追ひに舊家は廢《すた》れ、地方の山持《やまもち》、田地持の類《たぐひ》も何時《いつ》しかに流浪の身となつたものが多い。母の家も祖父の没後よく世にある例《ならひ》の武士の商法とかで、山林に手を出し、地方唯一の名望家として政治屋にまた盛に擔ぎ上げられたが爲めに瞬く間に財産を傾け盡くして、今はあの白い天守の屋根に屋根の艸が秋毎に赤い實をつくる外には、廣い屋敷は見るかげもなく荒れはてて了つた。加之、火災後の長い心勞と疲憊の末、柳河の「油屋」として、九州の古問屋として數代知られた舊家も遂には一家没落の憂き目を見るやうになつた。
私がこの「思ひ出」の編纂に着手し初めたのは、ちやうど郷家の舊《ふる》い財寶はあの花火の揚る、堀端のなつかしい柳のかげで無慘にも白日競賣の辱《はづか》しめを受けたといふ母上の身も世もあられないやうな悲しい手紙に接した時であつた。而して新らしい創作に從つてゐる間に秋となり冬が來て、今はまた晩春の惱ましい氣分に水祭《みづまつり》の囃子《はやし》や蠶豆の青くさい香ひのそことなく忍ばるるころとなつた。國よりの通知には愈酒倉は解かれ、親子兄弟凡てあの根ざしの深い「思出の家」から思ひきつて立ち退くべき時機が迫つたといふ事であつた。而して馴れぬ水仕業《みづしわざ》に可憐な妹の指が次第に大きく醜くなつてゆきますといふ事であつた。かうしてこの小さな抒情小曲集も今はただ家を失つたわが肉親にたつた一つの贈物《おくりもの》としたい爲めに、表紙にも思出の深い骨牌の女王を用ゐ、繪には全く無經驗な癖に首の赤い螢や生膽取や Jhon や Gonshan の漫畫まで※「#「插」の最後の縦画が下に突き出ている文字、第4水準2−13−28、XLVI−9]んで見た、而して心いくまで自分の思を懷かしみたいと思つて、拙いながら自分の意匠通りに裝幀して、漸くこの五月に上梓する事となつた。なほこの集に※[#「插」の最後の縦画が下に突き出ている文字、第4水準2−13−28、XLVI−11]んだ司馬江漢の銅版畫は第一囘の競賣の際古道具屋の手に依て一旦|埃塵溜《ごみため》に投げ棄てられたのをそつと私の拾つて來たものであつて、着色の珍らしい、印象の強い異國趣味のものだつたのが寫眞の不鮮明な爲め全く原畫の風韻を失つて了つたのはこの上もなく殘念に思はれる。畢竟私はこの「思ひ出」に依て、故郷と幼年時代の自分とに潔く訣別しやうと思ふ。過ぎゆく一切のものをしてかの紅い天鵞絨葵のやうに凋ましめよ。私の望むところは寧ろあの光輝ある未來である。而して私の凡ての感覺が新らしい甘藍の葉のやうに生《いき》いきとい香ひを放つてゐる「刹那」の狂ほしい氣分のなかに更に力ある人生の意義を見出すことである。終にたつた一人の愛する妹の爲めに、その可憐な十の指の何時までも細くしなやかならんことを切に祈つて置く。
TONKA JOHN.[#地より3字上げ]
一九一一、晩春、
東京にて。
[#改丁]
思ひ出目次
序詩
骨牌の女王
金の入日に繻子の黒
骨牌の女王の手に持てる花
燒栗のにほひ
黒い小猫
足くび
小兒と娘
青い小鳥
みなし兒
秋の日
人形つくり
くろんぼ
斷章六十一
一、今日もかなしと思ひしか
二、ああかなしあはれかなし
三、ああかなしあえかにもうらわかき
四、あはれわが君おもふ
五、暮れてゆく雨の日の
六、あはれ友よわかき日の友よ
七、見るとなく涙ながれぬ
八、女子よ汝はかなし
九、あはれ日のかりそめのものなやみ
十、あはれあはれ色薄きかなしみの葉かげに
十一、酒を注ぐ君のひとみの
十二、女汝はなにか欲りする
十三、惱ましき晩夏の日に
十四、わが友よ
十五、あはれ君我をそのごと
十六、哀知る女子のために
十七、口にな入れそ
十八、われは思ふかの夕ありし音色を
十九、嗚呼さみし哀れさみし
二十、大ぞらに入日のこり
二十一、いとけなき女の子に
二十二、わが友いづこにありや
二十三、彌古りて大理石は
二十四、泣かまほしさにわれひとり
二十五、柔かきかかる日の
二十六、蝉も鳴くひと日ひねもす
二十七、そを思へばほのかにゆかし
二十八、あはれあはれすみれの花よ
二十九、青梅に金の日光り
三十、 あはれさはうち鄙びたる
三十一、いまもなほワグネルの調に
三十二、わが友は
三十三、あはれ去年病みて失せにし
三十四、あああはれ青にぶき救世軍の
三十五、縁日の見世ものの
三十六、鄙びたる鋭き呼子
三十七、あはれあはれ色青き幻燈を
三十八、瓦斯の火のひそかにも
三十九、忘れたる忘れたるにはあらねども
四十、 つねのごと街をながめて
四十一、かかるかなしき手つきして
四十二、あかき果は草に落ち
四十三、葬式の歸途にか
四十四、顏のいろ蒼ざめて
四十五、長き日の光に倦みて
四十六、かなしかりにし昨日さへ
四十七、廢れたる園のみどりに
四十八、なにゆゑに汝は泣く
四十九、あはれ人妻
五十、 いかにせむ
五十一、色あかき三日月
五十二、柔らかなる日ざしに
五十三、われは怖る
五十四、いそがしき葬儀屋のとなり
五十五、明日こそは面も紅めず
五十六、色あかきデカメロンの
五十七、あはれ鐵雄
五十八、ほの青く色ある硝子
五十九、薄青き齒科醫の屋に
六十、 あはれあはれ灰色の線路にそひ
六十一、新詩社にありしそのかみ
過ぎし日
※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66、LIV−12]芙藍
銀笛
凾
陰影
淡い粉雪
穀倉のほめき
初戀
泣きにしは
薊の花
カステラ
散歩
隣の屋根
見果てぬ夢
高機
歌ひ時計
朝の水面
青いソフトに
意氣なホテルの
霜
時は逝く
おもひで
紅き實
車上
身熱
梨
鷄頭
椎の花
男の顏
水ヒアシンス
鵞鳥と桃
胡瓜
源平將棊
朝
人生
青き甕
赤足袋
挨拶
あかき林檎
恐怖
乳母の墓
生の芽生
石竹の思ひ出
幽靈
願人坊
あかんぼ
ロンドン
接吻
汽車のにほひ
どんぐり
赤い木太刀
糸車
水面
毛蟲
かりそめのなやみ
道ぐさ
螢
青いとんぼ
猫
おたまじやくし
銀のやんま
にくしみ
白粉花
水蟲の列
いさかひのあと
爪紅
夕日
紙きり蟲
わが部屋
監獄のあと
午後
アラビヤンナイト物語
敵
たそがれどき
赤き椿
二人
たはむれ
苅麥のにほひ
青い鳥
TONKA JOHN の悲哀
春のめざめ
秘密
太陽
夜
感覺
晝のゆめ
朱欒のかげ
幻燈のにほひ
雨のふる日
BALL
尿する和蘭陀人
水中のをどり
怪しき思
金縞の蜘蛛
兄弟
思
水銀の玉
接吻の後
たんぽぽ
柳河風俗詩
柳河
櫨の實
立秋
水路
酒の黴
一、金の酒をつくるは
二、からしの花の實になる
三、酒袋を干すとて
四、※[#「酉+元」、第3水準1−92−86、LXII−11]すり唄のこころは
五、麥の穗づらにさす日か
六、人の生るるもとすら
七、からしの花も實となり
八、櫨の實採の來る日に
九、ところも日をも知らねど
十、足をそろへて磨ぐ米
十一、ひねりもちのにほひは
十二、微かに消えゆくゆめあり
十三、さかづきあまたならべて
十四、その酒のその色のにほひの
十五、酒を釀すはわかうど
十六、ほのかに忘れがたきは
十七、酒屋の倉のひさしに
十八、カンカンに身を載せて
十九、かなしきものは刺あり
二十、目さまし時計の鳴る夜に
二十一、わが眠る倉のほとりに
二十二、倉の隅にさす日は
二十三、青葱とりてゆく子を
二十四、銀の釜に酒を湧かし
二十五、夜ふけてかへるふしどに
酒の精
紺屋のおろく
沈丁花
NOSKAI
かきつばた
AIYANの歌
曼珠沙華
牡丹
氣まぐれ
道ゆき
目くばせ
あひびき
水門の水は
六騎
梅雨の晴れ間
韮の葉
旅役者
ふるさと
[#改丁」
序 詩
[#改頁]
思ひ出は首すぢの赤い螢の
午後《ひるすぎ》のおぼつかない觸覺《てざはり》のやうに、
ふうわりと青みを帶びた
光るとも見えぬ光?
あるひはほのかな穀物《こくもつ》の花か、
落穗《おちぼ》ひろひの小唄か、
暖かい酒倉の南で
ひき揉《む》しる鳩の毛の白いほめき?
音色《ねいろ》ならば笛の類《るゐ》、
蟾蜍《ひきがへる》の啼く
醫師の藥のなつかしい晩、
薄らあかりに吹いてるハーモニカ。
匂ならば天鵝絨《びらうど》、
骨牌《かるた》の女王
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