百合の赤き花粉を嗅ぐときは
ひとり呪ひぬ、引き裂きぬ、噛みぬ、にじりぬ。
金文字の古き洋書の鞣皮《なめしがは》
ああ、それすらも黒猫に爪をかかしつ。
われは愛しぬ、くるしみぬ………顫へ、おそれぬ。
怪しさは蝋のほのほの泣くごとく、
青き蝮《まむし》のふたつなき觸覺のごと、
われとわが身をひきつつみ、かつ、かきむしる。
美くしき少年のえもわかぬ性の憂鬱。
金縞の蜘蛛
ゆく春のあるかなきかの絲に載り、
身を滑《すべ》らする金縞《きんじま》の蜘蛛《くも》。
雨ふれば濡れそぼち、
日のてれば光りかがやく金縞の蜘蛛。
その青き金縞の蜘蛛。
怪しく美くしき眼は
晝の年増《としま》の秘密をば見て見ぬふりにうち顫へ、
うら耻かしき少年の夢を見透かし、
明日《あす》死ぬるわが妹の命《いのち》をかひた[#「ひた」に傍点]と凝視《みつ》むる。
ゆく春のあるかなきかの絲に載り、
身を滑《すべ》らする金縞の蜘蛛。
人|來《く》れば肢《あし》を縮《ちゞ》め、
蟲|來《く》れば捕《と》りて血を吸ふ金縞の蜘蛛。
ただ一日《ひとひ》青く光れる金縞の蜘蛛。
兄弟
われらが素肌《すはだ》のさみしさよ、
細葱《ほそねぎ》の青き畑《はたけ》に、
きりぎりすの鳴く眞晝に。
金《きん》いろの陽《ひ》は
匍ひありく弟の胸掛にてりかへし、
そが兄の銀《ぎん》の小笛にてりかへし、
護謨《ゴム》人形の鼻の尖《とが》りに彈《は》ねかへる。
二人《ふたり》が眼に映《うつ》るもの、
いまだ酸ゆき梅の果、
土龍《もぐら》のみち、
晝の幽靈。
素肌にあそぶさびしさよ、
冷《つ》めたき足の爪さきに畑《はたけ》の土《つち》は新らしく、
金《きん》の光は絶間なく鐵琴《てつきん》のごと彈ねかへる。
かくて哀《かな》しき同胞《はらから》は
同じ血脈《ちすぢ》のかなしみのつき纒《まと》ふにか、呪ふにか、
離れんとしつ、戲《たはむ》れつ…………
みどり兒は怖々《おづおづ》と、あちら向きつつ蟲を彈《は》ね、
兄は眞青《まつさを》の葱のさきしん[#「しん」に傍点]と眺めて、唇《くち》あてて
何かえわかぬ晝の曲、
ひとり寥《さみ》しく笛を吹く、銀《ぎん》の笛吹く、笛を吹く。
思
堀端《ほりばた》に無花果《いちじゆく》みのり、
その實いとあかくふくるる。
軟風《そよかぜ》の薄きこころは
腫物《はれもの》にさはるがごとく。
夏はまた唖《おふし》の水馬《すいま》、
水面《みづのも》にただ彈《はぢ》くのみ。
誰か來て、するどきナイフ
ぐさと實を突《つ》き刺せよかし。…………
無花果は、ああ、わがゆめは、
今日《けふ》もなほ赤くふくるる。
水銀の玉
初冬の朝間《あさま》、鏡をそつと反《かへ》して、
緑ふくその上に水銀の玉を載すれば
ちらちらとその玉のちろろめく、
指さきに觸るれば
ちらちらとちぎれて
せんなしや、ちろろめく、
捉へがたきその玉よ、小《ちい》さき水銀の玉。
わかき日の、わかき日の、ちろろめく水銀の玉。
接吻の後
怖ろしきその女、
なつかしきその夜。
翌《あけ》の日は西よりのぼり、
恐怖《おそれ》と光にロンドン咲く。
血のごとく赤きロンドン。
われはただ路傍《みちばた》に俯し、
青ざめてじつと凝視《みつ》めつ。
血のごとく赤きロンドン。
ロンドンに
彈《は》ねかへる甲蟲《かぶとむし》、
――ある事を知れるごとくに。
はねかへる甲蟲、
われはただロンドンに
言葉なく顫へて恐る。
――わが生の第一の接吻《キス》。
たんぽぽ
[#ここから3字下げ]
わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ、友、年十九、名は中島鎭夫。
[#ここで字下げ終わり]
あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕《こみち》にしたたるや、
君がかなしき釣臺《つりだい》は
ひとり入日にゆられゆく…………
あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾《つぼみ》を染めてゆく、
君がかなしき傷口《きずぐち》に
春のにほひも沁み入らむ…………
あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸《ふ》れてゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………
あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日《いりひ》もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺《つりだい》の
かげも、靈《たましひ》もたんぽぽに。
あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫《ふる》へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。
あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口《きずぐち》に
蟲の鳴く音《ね》も消え入らむ…………
あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺《つりだい》は
ひとり入日にゆられゆく…………
[#改頁]
柳河風俗詩
[#改頁]
柳河
もうし、もうし、柳河《やながは》じや、
柳河じや。
銅《かね》の鳥居を見やしやんせ。
欄干橋《らんかんばし》をみやしやんせ。
(馭者は喇叭の音《ね》をやめて、
赤い夕日に手をかざす。)
薊の生えた
その家は、…………
その家は、
舊《ふる》いむかしの遊女屋《ノスカイヤ》。
人も住はぬ遊女屋《ノスカイヤ》。
裏の BANKO [#著者註の「*」が欠字]にゐる人は、…………
あれは隣の繼娘《ままむすめ》。
繼娘《ままむすめ》。
水に映《うつ》つたそのかげは、…………
そのかげは
母の形見《かたみ》の小手鞠《こてまり》を、
小手鞠を、
赤い毛糸でくくるのじや、
涙片手にくくるのじや。
もうし、もうし、旅のひと、
旅のひと。
あれ、あの三味をきかしやんせ。
鳰《にほ》の浮くのを見やしやんせ。
(馭者は喇叭の音をたてて、
赤い夕日の街《まち》に入る。)
夕燒《ゆうやけ》、小燒《こやけ》、
明日《あした》天氣になあれ。
*緑臺、葡萄牙語の轉化か。
櫨の實
冬の日が灰いろの市街を染めた、――
めづらしい黄《きい》ろさで、あかるく。
濁川に、向ふ河岸《かし》の櫨《はじ》の實に、
そのかげの朱印を押した材木の置場に。
枯れ枯れになつた葦《あし》の葉のささやき、…………
潮の引く方へおとなしく家鴨《あひる》がすべり、
鰻を生けた魚籠《うけ》のにほひも澱《とろ》む。
古風な中二階の危ふさ、
欄干《てすり》のそばに赤い果《み》の萬年青《おもと》を置いて、
柳河のしをらしい縫針《ぬひはり》の娘が
物指《ものさし》を頬にあてて考へてる。
何處《どこ》かで三味線の懶《ものう》い調子、――
疲れてゆく靜かな思ひ出の街《まち》、
その裏《うら》の寂しい生活《くらし》をさしのぞくやうに
「出《いで》の橋」の朽ちかかつた橋桁《はしげた》のうへから
YORANBANSHO [#「YORANBANSHO」に「*」の著者註]の花嫁が耻かしさうに眺めてゆく。
久し振りに雪のふりさうな空合《そらあひ》から
氣まぐれな夕日がまたあかるくてりかへし、
櫨《はじ》の實の卵いろに光る梢、
をりをり黒い鴉が留まっては消えてゆく。
* 嫁入のあくる日盛裝したる花嫁綿帽をかぶりて先に立ち、澁き紋服の姑つきそひて、町内及近親の家庭を披露してあるく、風俗花やかなれども匂いと古く雅びやかなり。[#この註、2行目以降は3字下げ]
立秋
柳河のたつたひとつの公園に
秋が來た。
古い懷月樓《くわいげつろう》の三階へ
きりきりと繰《く》り上ぐる氷水の硝子杯《コツプ》、
薄茶《うすちや》に、雪に、しらたま、
紅《あか》い雪洞《ぼんぼり》も消えさうに。
柳河のたつたひとつの遊女屋《いうぢよや》に
薊《あざみ》が生え、
住む人もないがらんどうの三階から
きりきりと繰り下ぐる氷水の硝子杯《コツプ》、
お代りに、ラムネに、サイホン、
こほろぎも欄干《らんかん》に。
柳河のたつたひとりの NOSKAI [#「NOSKAI」に「*」の著者註]は
しよんぼりと、
月の出の橋の擬寶珠《ぎぼしゆ》に手を凭《もた》せ、
きりきりと音《おと》のかなしい薄あかり、
けふもなほ水のながれに身を映《うつ》す。
「氷、氷、氷、氷…………」
* 遊女、方言。
水路
ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
しとやかな柳河の水路《すゐろ》を、
定紋《じやうもん》つけた古い提灯が、ぼんやりと、
その舟の芝居もどりの家族《かぞく》を眠らす。
ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
あるかない月の夜に鳴く蟲のこゑ、
向ひあつた白壁の薄あかりに、
何かしら燐のやうなおそれがむせぶ。
ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
草のにほひする低い土橋《どばし》を、
いくつか棹をかがめて通りすぎ、
ひそひそと話してる町の方へ。
ほうつほうつと螢が飛ぶ…………
とある家のひたひたと光る汲水場《クミツ》に
ほんのり立つた女の素肌
何を見てゐるのか、ふけた夜のこころに。
酒の黴
[#ここから3字下げ]
酒屋男は罰|被《か》ぶらんが不思議、ヨイヨイ、足で米といで手で流す、ホンニサイバ手で流す。ヨイヨオイ。
[#ここで字下げ終わり]
1
金《きん》の酒をつくるは
かなしき父のおもひで、
するどき歌をつくるは
その兒の赤き哀歡《あいくわん》。
金《きん》の酒つくるも、
するどき歌をつくるも、
よしや、また、わかき娘の
父《てて》知らぬ子供生むとも…………
2
からしの花の實になる
春のすゑのさみしや。
酒をしぼる男の
肌さへもひとしほ。
3
酒袋《さかぶくろ》を干すとて
ぺんぺん草をちらした。
散らしてもよかろ、
その實《み》となるもせんなし。
4
※[#「酉+元」、第3水準1−91−86、309−1]《もと》すり唄のこころは
わかき男の手にあり。
櫂《かい》をそろへてやんさの[#「やんさの」に傍点]、
そなた戀しと鳴らせる。
5
麥の穗づらにさす日か、
酒屋男《さかやをとこ》にさす日か、
輕ろく投げやるこころの
けふをかぎりのあひびき。
6
人の生るるもとすら
知らぬ女子《をなご》のこころに、
誰《た》が馴れ初めし、酒屋の
にほひか、麥のむせびか。
7
からしの花も實となり、
麥もそろそろ刈らるる。
かくしてはやも五月は
酒|量《はか》る手にあふるる。
8
櫨《はじ》の實採《みと》りの來る日に
百舌《もず》啼き、人もなげきぬ、
酒をつくるは朝あけ、
君へかよふは日のくれ。
9
ところも日をも知らねど、
ゆるししひとのいとしさ、
その名もかほも知らねど、
ただ知る酒のうつり香。
10
足をそろへて磨《と》ぐ米、
水にそろへて流す手、
わかいさびしいこころの
歌をそろゆる朝あけ。
11
ひねりもちのにほひは
わが知る人も知らじな。
頑《かた》くなのひとゆゑに
何時《いつ》までひねるこころぞ。
12
微《ほの》かに消えゆくゆめあり、
酒のにほひか、わが日か、
倉の二階にのぼりて
暮春をひとりかなしむ。
13
さかづきあまたならべて
いづれをそれと嘆かむ、
※[#「口+利」、第3水準1−15−4、314−6]酒《ききざけ》するこころの、
せんなやわれも醉ひぬる。
14
その酒の、その色のにほひの
口あたりのつよさよ。
おのがつくるかなしみに
囚《と》られて泣くや、わかうど。
15
酒を釀《かも》すはわかうど、
心亂すもわかうど、
誰とも知れぬ、女の
その兒の父もわかうど。
16
ほのかに忘れがたきは
酒つくる日のをりふし、
ほのかに鳴いて消えさる
青い小鳥のこころね。
17
酒屋の倉のひさしに
薊のくさの生ひたり、
その花さけば雨ふり、
その花ちれば日のてる。
18
計量機《カンカン》に身を載せて
量《はか》るは夏のうれひか、
薊の花を手にもつ
裸男の酒の香。
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