變《か》えてゆく五色花火のしたゝりに疲れた瞳を集める。
燒酎の不攝生に人々の胃を犯すのもこの時である。犬殺しが歩《あ》るき、巫女《みこ》が酒倉に見えるのもこの時である。さうして雨乞の思ひ思ひに白粉をつけ、紅《あか》い隈どりを凝らした假裝行列の日に日に幾隊となく續いてゆくのもこの時である。さはいへまた久留米絣をつけ新らしい手籠《てかご》を擁《かゝ》えた菱の實賣りの娘の、なつかしい「菱シヤンヨウ」の呼聲をきくのもこの時である。
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九月に入つて登記所の庭に黄色い鷄頭の花が咲くやうになつてもまだ虎列拉《コレラ》は止む氣色もない。若い町の辯護士が忙《いそが》しさうに粗末な硝子戸を出入《ではい》りし、蒼白い藥種屋の娘の亂行の漸く人の噂に上るやうになれば秋はもう青い澁柿を搗く酒屋の杵の音にも新らしい匂の爽かさを忍ばせる。
祗園會が了り秋もふけて線香を乾《かわ》かす家、からし油を搾《しぼ》る店、パラピン蝋燭を造る娘、提燈の繪を描く義太夫の師匠、ひとり飴形屋(飴形《あめがた》は飴の一種である、柳河特殊のもの)の二階に取り殘された旅役者の女房、すべてがしんみりとした氣分に物の哀れを思ひ知る十月の末には、先づ秋祭の準備として柳河のあらゆる溝渠はあらゆる市民の手に依て、一旦水門の扉を閉され、水は干《ほ》され、魚は掬《すく》はれ、腥くさい水草は取り除かれ、溝《どぶ》どろは奇麗に浚ひ盡くされる。この「水落ち」の樂しさは町の子供の何にも代へ難い季節の華である。さうしてこの一|騷《さわ》ぎのあとから、また久闊《ひさし》ぶりに清らかな水は廢市に注ぎ入り、樂しい祭の前觸《まへぶれ》が、異樣な道化《どうげ》の服裝をして、喇叭を鳴らし拍子木を打ちつゝ、明日《あす》の芝居の藝題《げだい》を面白ろをかしく披露しながら町から町へと巡り歩く。
祭は町から町へ日を異にして準備される、さうして彼我の家庭を擧げて往來しては一夕の愉快なる團欒に美くしい懇親の情を交すのである。加之、識る人も識らぬ人も醉うては無禮講の風俗をかしく、朱欒《ざぼん》の實のかげに幼兒と獨樂《こま》を囘《ま》はし、戸ごとに酒をたづねては浮かれ歩く。祭のあとの寂しさはまた格別である。野は火のやうな櫨紅葉に百舌がただ啼きしきるばかり、何處からともなく漂浪《さすら》ふて來た傀儡師《くぐつまはし》の肩の上に、生白い華魁《おいらん》の首が、カツクカツクと眉を振る物凄さも、何時の間にか人々の記憶から掻き消されるやうに消え失せて、寂しい寂しい冬が來る。
*
要するに柳河は廢市である。とある街の辻に古くから立つてゐる圓筒状の黒い廣告塔に、折々《おり/\》、西洋奇術の貼札《はりふだ》が紅いへらへら踊の怪しい景氣をつけるほかには、よし今のやうに、アセチリン瓦斯を點《つ》け、新たに電氣燈《でんき》をひいて見たところで、格別、これはといふ變化も凡ての沈滯から美くしい手品《てじな》を見せるやうに容易く蘇《よみがへ》らせる事は不可能であらう。ただ偶々《たま/\》に東京がへりの若い齒科醫がその窓の障子に氣まぐれな紅い硝子を入れただけのことで、何時しか屋根に薊の咲いた古い旅籠屋にほんの商用向の旅人が殆ど泊つたけはひも見せないで立つて了ふ。ただ何時通つても白痴の久たんは青い手拭を被つたまゝ同じ風に同じ電信柱をかき抱き、ボンボン時計を修繕《なほ》す禿頭は硝子戸の中に俯向《うつむ》いたぎりチツクタツクと音《おと》をつまみ、本屋の主人《あるじ》は蒼白い顏をして空をたゞ凝視《みつ》めてゐる。かういふ何の物音もなく眠つた街に、住む人は因循で、ただ柔順《おとな》しく、僅かに Gonshan(良家の娘、方言)のあの情の深さうな、そして流暢な、軟かみのある語韻の九州には珍らしいほど京都風なのに阿蘭陀訛の溶《とろ》け込んだ夕暮のささやきばかりがなつかしい。風俗の淫《みだ》らなのにひきかへて遊女屋のひとつも殘らず廢れたのは哀れぶかい趣のひとつであるが、それも小さな平和な街の小さな世間體を恐るゝ――利發な心が卑怯にも人の目につき易い遊びから自然と身を退くに至つたのであらう。いまもなほ黒いダアリヤのかげから、かくれ遊びの三味線は晝もきこえて水はむかしのやうに流れてゆく。
3
柳川を南に約半里ほど隔てて六騎《ロツキユ》の街《まち》沖《おき》ノ端《はた》がある。(六騎《ロツキユ》とはこの街に住む漁夫の諢名であって、昔平家沒落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて來て初めて漁りに從事したといふ、而してその子孫が世々その業を繼襲し、繁殖して今日の部落を爲すに至つたのである。)畢竟は柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ凡ての習俗もより多く南國的な、怠惰けた規律《しまり》のない何となく投げやりなところがある。さうしてかの柳河のただ外面《うはべ》に取すまして廢れた面紗《おもぎぬ》のかげに淫《みだ》らな秘密を匿《かく》してゐるのに比ぶれば、凡てが露《あらは》で、元氣で、また華《はな》やかである。かの巡禮の行樂、虎列拉《コレラ》避《よ》けの花火、さては古めかしい水祭の行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎《ロツキユ》は温ければ漁《すなど》り、風の吹く日は遊び、雨には寢《い》ね、空腹《ひもじ》くなれば食《くら》ひ、酒をのみては月琴を彈き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗教を遊樂に結びつけ、遊樂の中に微かに一味の哀感を繼いでゐる。觀世音は永久《とこしへ》にうらわかい街の處女に依て齋《いつ》がれ(各の町に一體づつの觀世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは参詣の人にくろ豆を配《くば》り、或は小屋をかけていろいろの催《もよふし》をする。さうしてこの中の資格は處女に限られ、縁づいたものは籍を除かれ、新らしい妙齡《としごろ》のものが代つて入る。)天火《てんび》のふる祭の晩の神前に幾つとなくかかぐる牡丹の唐獅子《からしし》の大提燈は、またわかい六騎《ロツキユ》の逞ましい日に燒けた腕《かひな》に献げられ、霜月親鸞上人の御正忌となれば七日七夜の法要は寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣《まう》づるとては、わかい男女《をとこをんな》夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら御正忌|参《めえ》らんかん…………の淫らな小歌に浮かれて媾曳《あひゞき》の樂しさを佛のまへに祈るのである。
沖《おき》ノ端《はた》の寫眞を見る人は柳、栴檀、櫨などのかげに、而も街の眞中《まんなか》を人工的水路の、水もひたひたと白く光つては芍藥の根を洗ひ洗濯女の手に波紋を畫く夏の眞晝の光景に一種のある異國的情緒の微漾を感ずるであらう。あの水祭はここで催され藍玉《あいだま》の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋を香《にほひ》の滴るばかり積みかさねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。かうして、私の母家はこの水の右折して、終に二條の大きな樋に極まり、渦を卷いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある。
今は銀行となつたが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋《あいだまや》の生鼠壁《なまこかべ》の隣に越太夫という義太夫の師匠が何時も氣輕な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、櫻のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相對して同じ樣な生鼠壁の舊家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私は Tonka John(大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醤油釀造を止した。
南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲公英《たんぽぽ》[#「蒲公英」は底本では「蒲生英」]の生えた舊い土藏づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、澁い店格子を透いて、銘酒を滿たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁《はり》の一つに、紺色の可憐な燕の雛が懷かしさうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は廣く、店全幅《みせいつぱい》の藥種屋式《やくしゆやしき》の硝子戸棚には曇つた山葵色《わさびいろ》の紙が張つて、その中《なか》ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ正確に、その扉の繪の、眼の青い、そして胸の白い女の横顏のうへに、チクタクと秒刻の優しい歩みを續けてゐた。その戸棚を開けると緑礬、硝石、甘草、肉桂、薄荷、どくだめの葉、中には賣藥の版木等がしんみりと交錯《こんがら》がつた一種異樣の臭を放つ。それはある漂浪者がこゝに來て食客をしてゐた時分密かに町の人に藥を賣つてゐたのが、逝《な》くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、舊い話であらう。
庭には無論朱欒の老木が十月となれば何時も黄色い大きな實をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戸ばかりの並倉に夏の酒は濕つて悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠《おけなわ》は長閑に槌を鳴らし、赤裸々《あかはだか》の酒屋男《さかやをとこ》は雪のふる臘月にも酒の仕込《しこ》みに走り囘り、さうして街の水路から樋をくぐつて來るかの小《ちひ》さい流《ながれ》は隱居屋の涼み臺の下を流れ、泉水に分れ注ぎ、酒桶を洗ひ眞白な米を流す水となり、同じ屋敷内の瀦水に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かに顫はせ、然《しか》るのち、ちゆうまえんだ[#「ちゆうまえんだ」に傍点]の菜園を一|周囘《めぐり》して貧《まづ》しい六騎《ロツキユ》の厨裏《くりやうら》に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだ[#「ちゆうまえんだ」に傍点]はもと古い僧院の跡だといふ深い竹藪であつたのを、私の七八歳のころ、父が他から買ひ求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ晝は赤い鬼百合の咲く畑に夜《よる》は幽靈の生《なま》じろい火が燃えた。
世間ではこの舊家を屋號通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋《ふるどんや》」と稱へた。實際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石數高く、魚類の問屋としては九州地方の老舖として夙《つと》に知られてゐたのである。從て濱に出ると平戸《ひらど》、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無鹽、鹽魚、鯨、南瓜《ボウブラ》、西瓜、たまには鵞鳥、七面鳥の類まで積んで來て、絶えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々《をり/\》は、血のついた腥くさい甃石《いしだゝみ》の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を眞赤に開《あ》けては、激しい夕燒の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに呑んで見せたものである。
私はかういふ雰圍氣の中で何時も可なり贅澤な氣分のもとに所謂油屋の Tonka John として安らかに生ひ立つたのである。
4
私の第二の故郷は肥後の南關であつた。南關は柳河より東五里、筑後境の物靜かな山中の小市街である。その街の近郊|外目《ほかめ》の山あひに恰も小さな城のやうに何時も夕日の反照をうけて、たまたま舊道をゆく人の瞻仰の的となつた天守造りの眞白な三層樓があつた。それが母の生れた家であって、數代この近郷の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であった。
私もまたこの小さな國の老侯のやうに敬はれ、侍《かしづ》かれ、慕はれて、餘生を讀書三昧に耽つた外祖|業隆《なりたか》翁の眞白な長髯のなつかしさを忘るる事が出來ぬ。私は土地の習慣上實はこの家で生れて――明治十八年二月二十五日――然る後古めかしい黒塗の駕籠に乘つて、まだ若い母上と柳河に歸つた。
私は生れて極めて虚弱な兒であつた。さうして癇癪の強い、ほんの僅かな外氣に當るか、冷たい指さきに觸《さは》られても、直ぐ四十度近くの高熱を喚び起した程、危險極まる兒であつた。石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆ど
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