にはあまりに叔父の生眞面目《きまじめ》なのに恐ろしくなつて幾度か逃げようとした。顫へてゐる私の眼の前には白い蛾の粉《こな》のついた大きな掌《てのひら》と十本の指の間から凝《ぢつ》と睨んでゐる黒い眼、………蠶の卵の彈《はぢ》く音、繭を食ひ切る音、はづんだ生殖の顫《ふる》へ、凡てが恐怖《おそれ》に蒼くなつた私の耳に小さな剃刀をいれるやうに絶間なく沁み込んで來る。私は何時も最後《しまひ》には泣き出したのである。――そのパノラマのやうな夜景のなかで、亞拉比亞夜話《アラビヤンナイト》の曾邊伊傳《ソベイデ》の譚《はなし》や、西洋奇談の魔法使ひや、驢馬に化《な》された西藏王子の話を聞かして貰つて、さうして縁《ふち》の赤い黒表紙の讚美歌集をまさぐりながらそのまま奇異《ふしぎ》な眠に落ちるのが常であつた。

   7

 私はこの當時まだあの蒼い海といふもの曾て見たことがなかつた。海といふものに就ての私の第一の印象は私を抱いて船から上陸した人の眞白《まつしろ》な蝙蝠傘《かうもりがさ》の輝きであつた。それは夏の眞晝だつたかも知れぬ、痛《いた》いほど眼《め》に沁んだ白色はその後未だに忘れることが出來《でき》なかつた。それが何時《いつ》だつたか、それからどうしたか、さつぱり私には記憶がない。それが不圖《ふと》したことからある近親《みより》の人の眼を患つて肥前|小濱《をはま》の湯治場《たうぢば》に滯留してゐた頃、母と乳母とあかんぼと遙《はる》ばる船から海を渡つて見舞に行つた當時の出來事だということがわかつた。その話から、不思議《ふしぎ》に Tonka John の記憶にもまだ殘つてゐたことを聞いた時のその人の驚きはをかしいほどであつた。何故ならばその當時私はまだほんの乳《ち》のみ兒で當歳か、やつと二歳《ふたつ》かであつたのである。次で乳母の背《せ》なかから見た海は濁《にご》つた黄いろい象《ぞう》の皮膚のやうなものだつた。さうして潮の引いたあとの瀉《がた》の色の恐ろしいまで滑らかな傾斜はかの大空の反射をうけた群青の光澤とともに、如何に私の神經を脅かしたか、瀉といふものを見たことのない人には到底不可解のものであらう。この詩集には載せなかつたが、矢張り「思ひ出」の中に私はその時の恐怖を歌つたものがある。
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海を見てはじめおそれぬ。
そは何時か、乳母の背に寢て、
色青き鯨の髯を賣るという老舖見しごと。
[#ここで字下げ終わり]
 それから年を經て、私はその瀉《がた》のなかに「ムツゴロ」といふ奇異《ふしぎ》な魚の棲息してゐることを知つた。そうしてその山椒魚《さんしよううを》に似た怪《あや》しい皮膚の、小さなゐもり状《じやう》の一群を恐ろしいもののやうに、覗きに行つた。後には吹矢《ふきや》のさきを二つに割《さ》いて、その眼や頭《あたま》を狙《ねら》つて殺して歩《ある》いたこともある。瀉にはまた「ワラスボ」といふ鰻に似て肌の生赤い斑點《ぶち》のある、ぬるぬるとした靜脈色の魚もゐた。魚といふよりも寧ろ蛇類の癩病にかかつた姿である。「メクワジヤ」と稱する貝は青くて病的な香を發する下等動物である。それを多食する吝嗇《けちんぼ》の女房はよく眼を病んで堀端《ほりばた》で鍋を洗つてゐた。「アゲマキ」という貝は瀟洒な薄黄色の殼《から》のなかに、やはり薄黄色の帽子をつけた片跛《かたちんば》の人間そのままの姿をして滑稽にもセピア色の褌をしめた小さな而して美味な生物である。その貝を捕る女は半切《はんぎり》を片手に引き寄せながら板子を滑らしては面白ろさうに走つてゆく。恰度、夏の入日があかあかと反射する時、私達の手から殘酷に投げ棄てられた黒猫が、黒猫の眼が、ぬるぬると滑り込みながら、もがけばもがくほど粘々《ねばねば》しい瀉の吸盤に吸ひ込まれて、苦しまぎれに斷末魔、爪を掻きちらした一種異樣の恐ろしい粘彩畫の上を、女はまた輕るく走りながらその板を滑らせては光澤《つや》つやと平準《なら》してゆく。さうして汐の靜かにさしてくる日没後の傾斜面は沈着《おちつ》いた紫色の光を帶びて幽かに夕づつのかげを浮べる。かうして瀉の不可思議は私らの幼年時代に取つては實に怪しくも美くしい何かしら深い秘密を秘めた恐怖と光の魔宮であつた。
 それは兎もあれ、十六の初旅に小蒸汽や赤い商船のかげに見た門司の海の凄いほど透きわたつた濃藍色はどんなに私をして新しい西洋の香に噎ばしめたであらう。さうしてその翌年長崎旅行の途次汽車の窓から見た大村灣の風光は實にかの繪にのみ見た廣重の海の青さであつた。

   8

 蛇目傘《じやのめ》を肩にしてキツとなつた定九郎の青い眼つきや、赤い毛布のかげを立つてゆく芝居の死人などに一種の奇妙な恐怖を懷いた三四歳の頃から私の異國趣味乃至異常な氣分に憧がるる心は蕨の花のやうに特
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