邊に可哀いい沖ノ端の孫を引きよせながら懷かしさうに佛蘭西式調練の小太皷の囃子を歌つて聽かす外にはまだ穉い子供に何らの讀書の權能をも認めて呉れなかつた。當時民友社ものを耽讀してゐた若い叔父はただ「夢想兵衞胡蝶物語」一册しか自由に讀まして呉れぬ。祖父の書架を飾った古い蘭書の黒皮表紙や廣重や北齋乃至草艸紙の見かへしの澁い手觸り、黄表紙、雨月物語、その他樣々の稗史、物語、探偵奇談、佛蘭西革命小説、經國美談、三國志、西遊記等の珍書は羅曼的な兒童の燃えたつ憧憬の情を嗾かして遂にはかの嚴格なる禁斷を犯かさしむるに到つた。
私はよく葡萄棚の下に緑いろの日の光を浴びながら新らしい紙の匂ひに親しみ、赤い柿の實の反射にぼやけた草艸紙の平假名を拾つては百舌《もず》の啼く音《ね》をきき耽つた。私は本のひとつひとつの匂ひや色や手觸の異なる毎にそれぞれ特殊なある感覺の悲しみを嗅ぎわけた。私は梨の木に上つて果實の甘い液にナイフの刄《は》をつける時も、ゐもりの赤い腹を恐れて芝くさのほめきに身をひたす時も、赤《あか》ん谷の婆(母の乳母で髪の白いなつかしい老婆だつた)のところに山桃《やんもも》採りにゆく時にも、絶えず何らかの稗史を手にしないことは無かつた。私はたゞ感動し、昂奮し、あらゆる稚い空想に耽つた。
ある日の午後圓い玉葱の花に黄色い日光が照りつけて、晝の蟲が幽かにパツチパツチと鳴いてゐる時、私はその上の丘の芝生に寢ころびながら初めて自分の身體から沁み出る強い汗の臭を知つた。さうして軟風のいらいらと葱の臭を吹きおくるたびに私はある異常な靈の壓迫を感じた。かういふ日が續いて私は遂に激しい本能の衝動に驅られた。さうしてその日から非常に晝の太陽を恐るるやうになつた。
愈「春の覺醒《めざめ》」の時代が來た。さうして赤い青い書籍の手觸りに全官感を慄かしてゐた私はまたその以外の新らしい世界を發見し得た恐怖《おそれ》と喜びに身も靈も顫はしながら燃えたつ瞳に凡てのものを美くしく苦るしくさうして哀しく、寂しく感じ得るやうになつた。さはいへ、私もまた喜怒哀樂の情の激しい一面に極めて武士的な正義と信實とを尊ぶ清らかな母の手に育てられて、一時は強ひて山羊の血の交じつた怯懦な心に酒を恐れ煙草を惡み、單に懷中鏡を持つてゐたといふ丈けで友人と絶交しかけたほど僞善的な十四の春を迎へた。さうして何時までも女を恐れた。淫らな水郷
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