な》よ。
ほのに汝《な》を嗅《か》ぎゆくここち、
QURACIO《キユラソオ》 の酒もおよばじ。
いつはあれ、ものうき胸に
痛《いたみ》知るささやきながら、
わかき火のにほひにむせて
はばたきぬ、快楽《けらく》のうたは。
そのうたを誰かは解《と》かむ。
あえかなる罪のまぼろし、――
濃《こ》き華の褐《くり》に沁みゆく
愛欲《あいよく》の千々《ちぢ》のうれひを。
向日葵《ひぐるま》の日に蒸すにほひ、
かはたれのかなしき怨言《かごと》
ゆるやかにくゆりぬ、いまも
絶間《たえま》なき火のささやきに。
かくてわがこころひねもす
傷《いた》むともなくてくゆりぬ、
あな、あはれ、汝《な》が香《か》の小鳥
そらいろのもやのつばさに。
[#地付き]四十年九月
舗石
夏の夜《よ》あけのすずしさ、
氷載せゆく車の
いづちともなき軋《きしり》に、
潤《うる》みて消ゆる瓦斯《がす》の火。
海へか、路次《ろじ》ゆみだれて
大族《おほうから》なす鵞《が》の鳥
鳴きつれ、霧のまがひに
わたりぬ――しらむ舗石《しきいし》。
人みえそめぬ。煙草《たばこ》の
ただよひ湿《しめ》るたまゆら、
辻なる※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の絵硝子《ゑがらす》
あがりぬ――ひびく舗石《しきいし》。
見よ、女《め》が髪のたわめき
濡れこそかかれ、このとき
つと寄《よ》り、男、みだらの
接吻《くちつけ》――にほふ舗石《しきいし》。
ほど経て※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]を閑《さ》す音《おと》。
枝垂柳《しだれやなぎ》のしげみを、
赤き港の自働車《じどうしや》
けたたましくも過《す》ぎぬる。
ややあり、ほのに緋《ひ》の帯、
水色うつり過《す》ぐれば、
縺《もつ》れぬ、はやも、からころ、
かろき木履《きぐつ》のすががき。
[#地付き]四十年九月
驟雨前
長月《ながつき》の鎮守《ちんじゆ》の祭《まつり》
からうじてどよもしながら、
雨《あめ》もよひ、夜《よ》もふけゆけば、
蒸しなやむ濃《こ》き雲のあし
をりをりに赤《あか》くただれて、
月あかり、稲妻《いなづま》すなる。
このあたり、だらだらの坂《さか》、
赤楊《はん》高き小学校の
柵《さく》尽きて、下《した》は黍畑《きびばた》
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや女声《をみなごゑ》して
重たげに雨戸《あまど》繰《く》る音《おと》。
わかれ路《みち》、辻《つじ》の濃霧《こぎり》は
馬やどののこるあかりに
幻燈《げんとう》のぼかしのごとも
蒸し青《あを》み、破《や》れし土馬車《つちばしや》
ふたつみつ泥《どろ》にまみれて
ひそやかに影を落《おと》しぬ。
泥濘《ぬかるみ》の物の汗《あせ》ばみ
生《なま》ぬるく、重き空気《くうき》に
新しき木犀《もくせい》まじり、
馬槽《うまぶね》の臭気《くさみ》ふけつつ、
懶《もの》うげのさやぎはたはた
暑《あつ》き夜《よ》のなやみを刻《きざ》む。
足音《あしおと》す、生血《なまち》の滴《した》り
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、六部《ろくぶ》か、
背《せ》に高き龕《みづし》をになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻《うめ》きつつ闇にまぎれぬ。
生騒《なまさや》ぎ野をひとわたり。
とある枝《え》に蝉は寝《ね》おびれ、
ぢと嘆《なげ》き、鳴きも落つれば
洞《ほら》円《まろ》き橋台《はしだい》のをち、
はつかにも断《き》れし雲間《くもま》に
月|黄《き》ばみ、病める笑《わら》ひす。
夜《よ》の汽車の重きとどろき。
凄まじき驟雨《しゆうう》のまへを、
黒烟《くろけぶり》深《ふか》き峡《はざま》は
一面《いちめん》に血潮ながれて、
いま赤く人|轢《し》くけしき。
稲妻す。――嗚呼|夜《よ》は一時《いちじ》。
[#地付き]三十九年九月
解纜
解纜《かいらん》す、大船《たいせん》あまた。――
ここ肥前《ひぜん》長崎港《ながさきかう》のただなかは
長雨《ながあめ》ぞらの幽闇《いうあん》に海《うな》づら鈍《にぶ》み、
悶々《もんもん》と檣《ほばしら》けぶるたたずまひ、
鎖《くさり》のむせび、帆のうなり、伝馬《てんま》のさけび、
あるはまた阿蘭船《おらんせん》なる黒奴《くろんぼ》が
気《き》も狂《くる》ほしき諸ごゑに、硝子《がらす》切る音《おと》、
うち湿《しめ》り――嗚呼《ああ》午後《ごご》七時――ひとしきり、落居《おちゐ》ぬ騒擾《さやぎ》。
解纜《かいらん》す、大船あまた。
あかあかと日暮《にちぼ》の街《まち》に吐血《とけつ》して
落日《らくじつ》喘《あへ》ぐ寂寥《せきれう》に鐘鳴りわたり、
陰々《いんいん》と、灰色《はいいろ》重き曇日《くもりび》を
死を告《つ》げ知らすせはしさに、響は絶《た》えず
天主《てんしゆ》より。――闇
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