と滴《したた》るばかり
激瀾《おほなみ》の飛沫《しぶき》に濡れて、
弥《いや》さらに匂ひ閃《ひら》めく
火のごとき少女《をとめ》のむれよ。
[#ここから2字下げ]
寄せ返し、遠く消えゆく
塩※[#「さんずい+區」、第3水準1−87−4]《しほなわ》暗き音《ね》を聴け。
[#ここで字下げ終わり]
ああ薔薇《さうび》、汝《なれ》にむかへば
わかき日のほこりぞ躍る。
薔薇《さうび》、薔微《さうび》、あてなる薔薇《さうび》。


  紐

海の霧にほやかなるに
灯《ひ》も見ゆる夕暮のほど、
ほのかなる旅籠《はたご》の窓に
在《あ》るとなく暮《く》れもなやめば、
やはらかき私語《ささやき》まじり
咽《むせ》びきぬ、そこはかとなく、
火に焼くる薔薇《さうび》のにほひ。

ああ、薔薇《さうび》、暮れゆく今日《けふ》を
そぞろなり、わかき喘《あへぎ》に
図《はか》らずも思ひぞいづる。
そは熱《あつ》き夏の渚辺《なぎさべ》、
濡髪《ぬれがみ》のなまめかしさに、
女《をみな》つと寝《ね》がへりながら、
みだらなる手して結びし
色|紅《あか》き韈《くつした》の紐《ひも》。


  昼

蜜柑船《みかんぶね》凪《なぎ》にうかびて
壁白き浜のかなたは
あたたかに物売る声す。
波もなき港の真昼《まひる》、
白銀《しろがね》の挿櫛《さしぐし》撓《たは》み
いま遠く二つら三つら
水の上《へ》をすべると見つれ。
波もなき港の真昼、
また近く、二つら三つら
飛《とび》の魚すべりて安《やす》し。


  夕

あたたかに海は笑《わら》ひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聴くとしもなく
薔薇《さうび》摘《つ》み、ほのかに愁《うれ》ふ。
いま聴くは市《いち》の遠音《とほね》か、
波の音《ね》か、過ぎし昨日《きのふ》か、
はた、淡《あは》き今日《けふ》のうれひか。

あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる夕日《ゆふひ》に
白銀《しろがね》の絹衣《すずし》ゆるがせ、
いまあてに花|摘《つ》みながら
かく愁《うれ》ひ、かくや聴《き》くらむ、
紅《くれなゐ》の南極星下《なんきよくせいか》
われを思ふ人のひとりも。


  羅曼底の瞳

[#ここから4字下げ]
この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。
[#ここで字下げ終わり]

美《うつ》くしきソフィヤの君《きみ》。
悲《かな》しくも恋《こひ》しくも見え給ふわがわかきソフィヤの君《きみ》。
なになれば日もすがら今日《けふ》はかく瞑目《めつぶ》り給ふ。
美《うつ》くしきソフィヤの君《きみ》、
われ泣けば、朝な夕《ゆふ》なに、
悲《かな》しくも静《しづ》かにも見ひらき給ふ青き華《はな》――少女《をとめ》の瞳《ひとみ》。
ソフィヤの君《きみ》。
[#改丁]

   古酒

こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※[#「酉+珍のつくり」、169−8]※[#「酉+蛇のつくり」、第4水準2−90−34]の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
[#改ページ]

  恋慕ながし

春ゆく市《いち》のゆふぐれ、
角《かく》なる地下室《セラ》の玻璃《はり》透き
うつらふ色とにほひと
見惚《みほ》れぬ。――潤《う》るむ笛の音《ね》。

しばしは雲の縹《はなだ》と、
灯《ひ》うつる路《みち》の濡色《ぬれいろ》、
また行く素足《すあし》しらしら、――
あかりぬ、笛の音色《ねいろ》も。

古き醋甕《すがめ》と街衢《ちまた》の
物焼く薫《くゆり》いつしか
薄らひ饐《す》ゆれ。――澄みゆく
紅《あか》き音色《ねいろ》の揺曳《ゆらびき》

このとき、玻璃《はり》も真黒《まくろ》に
四輪車《しりんしや》軋《きし》るはためき、
獣《けもの》の温《ぬる》き肌《はだ》の香《か》
過《よ》ぎりぬ。――濁《にご》る夜《よ》の色。

ああ眼《め》にまどふ音色《ねいろ》の
はやも見わかぬかなしさ。
れんほ、れれつれ、消えぬる
恋慕《れんぼ》ながしの一曲《ひとふし》。
[#地付き]四十年二月


  煙草

黄《き》のほてり、夢のすががき、
さはあまきうれひの華《は
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