》の
血に染みし踵《かがと》のあたり、蟋蟀《きりぎりす》啼きもすずろぐ。
[#地付き]四十一年八月


  狂へる椿

ああ、暮春《ぼしゆん》。

なべて悩《なや》まし。
溶《とろ》けゆく雲のまろがり、
大《おほ》ぞらのにほひも、ゆめも。

ああ、暮春。

大理石《なめいし》のまぶしきにほひ――
幾基《いくもと》の墓の日向《ひなた》に
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩暈《くるめき》の甘き恐怖《おそれ》よ。
あかあかと狂ひいでぬる薮椿《やぶつばき》、
自棄《やけ》に熱《ねつ》病《や》む霊《たま》か、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]言《うはごと》。

そがかたへなる崖《がけ》の上《うへ》、
うち湿《しめ》り、熱《ほて》り、まぶしく、また、ねぶく
大路《おほぢ》に淀《よど》むもののおと。
人力車夫《じんりきしやふ》は
ひとつらね青白《あをじろ》の幌《ほろ》をならべぬ。
客を待つこころごころに。

ああ、暮春。

さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖《がけ》には、
窓《まど》もなき牢獄《ひとや》の壁の
長き列《つら》、はては閉《とざ》せる
灰黒《はひぐろ》の重き裏門《うらもん》。

はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪地《くぼち》のそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿《しめ》り吹きゆく
幼《をさな》ごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲《ふし》。

笛の曲《ふし》…………
かくて、はた、病《や》みぬる椿《つばき》、
赤く、赤く、狂《くる》へる椿《つばき》。
[#地付き]四十一年六月


  吊橋のにほひ

夏の日の激《はげ》しき光
噴《ふ》きいづる銀《ぎん》の濃雲《こぐも》に照りうかび、
雲は熔《とろ》けてひたおもて大河筋《おほかはすぢ》に射かへせば、
見よ、眩暈《めくるめ》く水の面《おも》、波も真白に
声もなき潮のさしひき。

そがうへに懸《かか》る吊橋。
煤《すす》けたる黝《ねずみ》の鉄《てつ》の桁構《けたがまへ》、
半月形《はんげつけい》の幾円《いくまろ》み絶えつつ続くかげに、見よ、
薄《うす》らに青む水の色、あるは煉瓦《れんぐわ》の
円柱《まろはしら》映《うつ》ろひ、あかみ、たゆたひぬ。

銀色《ぎんいろ》の光のなかに、
そろひゆく櫂《オオル》のなげきしらしらと、
或《あるひ》は仄《ほの》の水鳥《みづとり》のそことしもなき音《ね》のうれひ、
河岸《かし》の氷室《ひむろ》の壁も、はた、ただに真昼の
白蝋《はくらふ》の冷《ひや》みの沈黙《しじま》。

かくてただ悩《なや》む吊橋《つりはし》、
なべてみな真白き水《み》の面《も》、はた、光、
ただにたゆたふ眩暈《くるめき》の、恐怖《おそれ》の、仄《ほの》の哀愁《かなしみ》の
銀《ぎん》の真昼《まひる》に、色重き鉄《てつ》のにほひぞ
鬱憂《うついう》に吊られ圧《お》さるる。

鋼鉄《かうてつ》のにほひに噎《むせ》び、
絶えずまた直裸《ひたはだか》なる男の子
真白《ましろ》に光り、ひとならび、力《ちから》あふるる面《おもて》して
柵《さく》の上より躍《をど》り入る、水の飛沫《しぶき》や、
白金《はつきん》に濡《ぬ》れてかがやく。

真白《ましろ》なる真夏《まなつ》の真昼《まひる》。
汗《あせ》滴《した》るしとどの熱《ねつ》に薄曇《うすくも》り、
暈《くら》みて歎《なげ》く吊橋のにほひ目当《めあて》にたぎち来る
小蒸汽船《こじようきせん》の灰《はひ》ばめる鈍《にぶ》き唸《うなり》や、
日は光り、煙うづまく。
[#地付き]四十一年八月


  硝子切るひと

君は切る、
色あかき硝子《がらす》の板《いた》を。
落日《いりひ》さす暮春《ぼしゆん》の窓に、
いそがしく撰《えら》びいでつつ。

君は切る、
金剛《こんがう》の石のわかさに。

茴香酒《アブサン》のごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。

君は切る、
色あかき硝子《がらす》の板を。

君は切る、君は切る。
[#地付き]四十年十二月


   悪の窓 断篇七種


   一 狂念

あはれ、あはれ、
青白《あをじろ》き日の光西よりのぼり、
薄暮《くれがた》の灯のにほひ昼もまた点《とも》りかなしむ。

わが街《まち》よ、わが窓よ、なにしかも焼酎《せうちう》叫《さけ》び、
鶴嘴《つるはし》のひとつらね日に光り悶《もだ》えひらめく。

汽車《きしや》ぞ来《く》る、汽車《きしや》ぞ来《く》る、真黒《まくろ》げに夢とどろかし、
窓もなき灰色《はひいろ》の貨物輌《くわもつばこ》豹《へう》ぞ積みたる。
あはれ、はや、焼酎《せうちう》は醋《す》とかはり、人は轢《し》かれて、
盲《めし》ひつつ血に叫ぶ豹《へう》の声|遠《とほ》に泡《あわ》立つ。
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