Bそのときにひとつの硝子《がらす》
幽魂《いうこん》の如《ごと》くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。

濃霧《のうむ》はそそぐ……数《かず》の、見よ、人かげうごき、
闌《ふ》くる夜《よ》の恐怖《おそれ》か、痛《いた》きわななきに
ただかいさぐる手のさばき――霊《たま》の弾奏《だんそう》、
盲目《めしひ》弾き、唖《おうし》と聾者《ろうじや》円《つぶ》ら眼《め》に重《かさ》なり覗《のぞ》く。

濃霧《のうむ》はそそぐ……声もなき声の密語《みつご》や。
官能《くわんのう》の疲《つか》れにまじるすすりなき
霊《たま》の震慄《おびえ》の音《ね》も甘く聾《ろう》しゆきつつ、
ちかき野に喉《のど》絞《し》めらるる淫《たは》れ女《め》のゆるき痙攣《けいれん》。

濃霧《のうむ》はそそぐ……香《か》の腐蝕《ふしよく》、肉《にく》の衰頽《すゐたい》、――
呼吸《いき》深く※[#「口+哥」、第4水準2−04−18]※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]謨《コロロホルム》や吸ひ入るる
朧《ろう》たる暑き夜《よ》の魔睡《ますゐ》……重く、いみじく、
音《おと》もなき盲唖《まうあ》の院《ゐん》の氛囲気《ふんゐき》に月はしたたる。
[#地付き]四十一年十月


  赤き花の魔睡

日《ひ》は真昼《まひる》、ものあたたかに光素《エエテル》の
波動《はどう》は甘《あま》く、また、緩《ゆ》るく、戸《と》に照りかへす、
その濁《にご》る硝子《がらす》のなかに音《おと》もなく、
※[#「口+哥」、第4水準2−04−18]※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]謨《コロロホルム》の香《か》ぞ滴《したた》る……毒《どく》の※[#「言+墟のつくり、第4水準2−88−74]言《うはごと》……

遠《とほ》くきく、電車《でんしや》のきしり……
………棄《す》てられし水薬《すゐやく》のゆめ……

やはらかき猫《ねこ》の柔毛《にこげ》と、蹠《あなうら》の
ふくらのしろみ悩《なや》ましく過《す》ぎゆく時《とき》よ。
窓《まど》の下《もと》、生《せい》の痛苦《つうく》に只《たゞ》赤《あか》く戦《そよ》ぎえたてぬ草《くさ》の花
亜鉛《とたん》の管《くだ》の
湿《しめ》りたる筧《かけひ》のすそに……いまし魔睡《ますゐ》す……
[#地付き]四十一年十二月


  麦の香

嬰児《あかご》泣く……麦の香《か》の湿《しめ》るあなたに、
続《つゞ》け泣く……やはらかに、なやましげにも、
香《か》に噎《むせ》び、香《か》に噎《むせ》び、あはれまた、嬰児《あかご》泣きたつ……
夏の雨さと降《ふ》り過《す》ぎて
新《あらた》にもかをり蒸《む》す野の畑《はた》いくつ湿《しめ》るあなたに、
赤き衣《きぬ》一《ひと》きは若《わか》く、にほやかにけぶる揺籃《ゆりご》や、
磨硝子《すりがらす》、あるは窓枠《まどわく》、濡《ぬ》れ濡《ぬ》れて夕日《ゆふひ》さしそふ。
[#地付き]四十一年十二月


  曇日

曇日《くもりび》の空気《くうき》のなかに、
狂《くる》ひいづる樟《くす》の芽《め》の鬱憂《メランコリア》よ……
そのもとに桐《きり》は咲く。
Whisky《ウイスキイ》 の香《か》のごときしぶき、かなしみ……

そこここにいぎたなき駱駝《らくだ》の寝息《ねいき》、
見よ、鈍《にぶ》き綿羊《めんやう》の色のよごれに
饐《す》えて病《や》む藁《わら》のくさみ、
その湿《しめ》る泥濘《ぬかるみ》に花はこぼれて
紫《むらさき》の薄《うす》き色|鋭《するど》になげく……
はた、空《そら》のわか葉《ば》の威圧《ゐあつ》。

いづこにか、またもきけかし。
餌《ゑ》に饑《う》ゑしベリガンのけうとき叫《さけび》、
山猫《やまねこ》のものさやぎ、なげく鶯《うぐひす》、
腐《くさ》れゆく沼《ぬま》の水|蒸《む》すがごとくに。

そのなかに桐は散《ち》る…… Whisky《ウイスキイ》 の強きかなしみ……

もの甘《あま》き風のまた生《なま》あたたかさ、
猥《みだ》らなる獣《けもの》らの囲内《かこひ》のあゆみ、
のろのろと枝《え》に下《さが》るなまけもの、あるは、貧《まづ》しく
眼《め》を据《す》ゑて毛虫《けむし》啄《つ》む嗟歎《なげかひ》のほろほろ鳥《てう》よ。

そのもとに花はちる……桐のむらさき……

かくしてや日は暮《く》れむ、ああひと日。
病院《びやうゐん》を逃《のが》れ来《こ》し患者《くわんじや》の恐怖《おそれ》、
赤子《あかご》らの眼《め》のなやみ、笑《わら》ふ黒奴《くろんぼ》
酔《ゑ》ひ痴《し》れし遊蕩児《たはれを》の縦覧《みまはり》のとりとめもなく。

その空《そら》に桐《きり》はちる……新《あたら》しきしぶき、
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