《と》ける。
次《つぎ》なるは聾《ろう》しぬる清き尼《あま》三味線《しやみせん》弾《ひ》ける。

しかはあれ、照り狂ふ街《まち》はまた酒と歌とに
しどろなる舞《まひ》の列《れつ》あかあかと淫《たは》れくるめき、
馬車《ばしや》のあと見もやらず、意味《いみ》もなく歌ひ倒《たふ》るる。


   C 醋の甕

蒼《あを》ざめし汝《な》が面《おもて》饐《す》えよどむ瞳《ひとみ》のにごり、
薄暮《くれがた》に熟視《みつ》めつつ撓《たわ》みちる髪の香《か》きけば――
醋《す》の甕《かめ》のふたならび人もなき室《むろ》に沈みて、
ほの暗《くら》き玻璃《はり》の窓ひややかに愁《うれ》ひわななく。

外面《とのも》なる嗟嘆《なげかひ》よ、波もなきいんく[#「いんく」に傍点]の河に
旗青き独木舟《うつろぶね》そこはかと巡《めぐ》り漕ぎたみ、
見えわかぬ悩《なやみ》より錨《いかり》曳《ひ》き鎖《くさり》巻かれて、
伽羅《きやら》まじり消え失《う》する黒蒸汽《くろじようき》笛《ふえ》ぞ呻《うめ》ける。

吊橋《つりばし》の灰白《はひじろ》よ、疲《つか》れたる煉瓦《れんぐわ》の壁《かべ》よ、
たまたまに整《ととの》はぬ夜《よ》のピアノ淫《みだ》れさやげど、
ひとびとは声もなし、河の面《おも》をただに熟視《みつ》むる。
はた、甕《かめ》のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と外《そと》かぎりなき懸隔《へだたり》に帷《とばり》堕《お》つれば、
あな悲し、あな暗《くら》し、醋《す》の沈黙《しじま》長くひびかふ。

   D 沈丁花

なまめけるわが女《をみな》、汝《な》は弾《ひ》きぬ夏の日の曲《きよく》、
悩《なや》ましき眼《め》の色に、髪際《かうぎは》の紛《こな》おしろひに、
緘《つぐ》みたる色あかき唇《くちびる》に、あるはいやしく
肉《ししむら》の香《か》に倦《う》める猥《みだ》らなる頬《ほ》のほほゑみに。

響《ひび》かふは呪《のろ》はしき執《しふ》と欲《よく》、ゆめもふくらに
頸《うなじ》巻く毛のぬくみ、真白《ましろ》なるほだしの環《たまき》
そがうへに我ぞ聴《き》く、沈丁花《ぢんてうげ》たぎる畑《はたけ》を、
堪《た》へがたき夏の日を、狂《くる》はしき甘《あま》きひびきを。

しかはあれ、またも聴く、そが畑《はた》に隣《とな》る河岸《かし》側《きは》、
色ざめし浅葱幕《あさぎまく》
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