識を有つた詩人の哀しい意気地を立て貫かうといたしました。――それから日ならずして市ヶ谷に送られましたのです。
――東京監獄の二週日は浅はかな小生の為には何よりの貴い省察と静思の時間を与へて貰ひました。これが為に若し今後の芸術上の作品に真に信実な感情の光と曾て見なかつた新らしい思想の芽生とを齎《もた》らす事が出来たら、小生は全く此度の関係者達にまたとない美くしい感謝の涙を献げねばなりません。名誉も幸福も天の恩恵も凡て目下の小生は路傍の石くれと同一、何らの身を飾るべき宝玉のたしにも為つては呉れない。さり乍ら、小生にはあらゆる讚辞と輝やかしい彩花とに生き甲斐のある一少詩人の万歳を祝つて載いた「思ひ出会」の当夜よりも、今は却て一層の安静な自己の霊魂の面に尊い而して親しみ易い哀楽の諸相を味ふ事が出来さうに思はれます。この一片の偽らざる有の儘の告白も凡て繊弱な自己に対する適当なひとつの鞭撻に過ぎませぬ。然しまた時として、強くあるべき筈の心にもなほ赤裸々な人間の悲しさと果敢なさとをしみじみと思ひしめては今更らしくけふ日の新らしい涙に咽ぶ事が無いでも御座いません。何事も凡てを哀しいまたとえ難い懐かしい経験と思はねばなりません。小生は凡てを覚悟致して居るつもりで御座います。
終りに諸氏の御健康と霊魂の幸福とを、改めて寂しいこの一罪囚に祈らして下さいまし。
[#天から3字下げ]大正元年八月二十八日午前三時
底本:「日本の名随筆 別巻55 恋心」作品社
1995(平成7)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「白秋全集 第三五巻」岩波書店
1987(昭和62)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:浦山 敦子
校正:noriko saito
2009年5月5日作成
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