源であり本流である。「マザア・グウス」もおなじく英国童謡の本源とみなしていいであろう。こうした民族の伝統ということを考えないで、ただ優秀な詩人の手になるもののみが真の高貴な歌謡だと思うのはまちがいであろう。私はそうした妙な詩人気取りはきらいである。
ほんとうを言うと、民謡とか童謡とかいうものは、たとえそれがある種の詩人の作だったにせよ、その歌謡が一般民衆のものとなった以上、その作者の名は忘れられて、その歌謡だけがすべての民衆のものとなる。そうして残れば残るだけ、その歌謡は民謡として成功したものだといいうる。すなわち作者の名が忘れられれば忘れられるだけ、ほんとうの民謡として光あるものであるのだ。
今日「マザア・グウス」の童謡として伝えられているもののうち、グウス夫人の作がむろんすべてであるとは思えぬ。いろいろ作者未詳のもの、子供そのものの声が混入しているにちがいない。グウス夫人の名すらも英国その他の英語本位の国々では忘れられて、子供たちはいわゆるお母さんがちょうの謡《うた》だと思っている。読まれるということよりも歌いはやされている。すなわちイギリス民族そのものの童謡となっている。この民衆そのものの歌謡を決して侮ってはならない。
ことにその快活、その機智、その鋭い諷刺《ふうし》、無邪、諧謔《かいぎゃく》、豊潤な想像、それらのたぐいまれな種々相にはさすがに異常な特殊の光が満ちている。むろん、これらの中には純粋な芸術上の立場から見ると、多少の玉石|混淆《こんこう》は免れぬ。しかしこれは民謡としての紹介にはしかたのないものである。だから芸術品として見てもずいぶんいいと思うものがある代わり、ずっと品位の落ちたのも少々はある。それにしてもどうにも棄てるには惜しいなんらかの鋭さが蔵されている。で、私は拾った。ただ無批判に手当たり次第に訳したのではない。これでないと「マザア・グウス」の大体がはっきりしないからである。子供というものはそうビクビクして教育しなくともよい。私は子供の叡智《えいち》を信じている。
私はまたこれらの Nursery Rhymes を訳しながら、洋の東西を問わず子供の感情ないし感覚生活ということについてはほとんどおんなじだということに驚かされた。この中の「てんとうむし」のごときは全然日本の「からすからす」の童謡とそっくりではないか。幾つかの「ででむし」の
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