から人は本能的に雷を恐れる。雷撃を直接受けたことが無くとも雷を畏怖するのは、恐らく古い世界からの遺伝で不意識に畏怖するのであらう。それがひどくなると、武道伝来記に出て来る乙見滝之進のやうな、雷の畏怖から悲劇に迄《まで》発展することがあり、
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『滝之進日来雷公にこはがる事人にすぐれたれば、此《この》ひびきに動顛《どうてん》して関内まづ待つてくれよと、半分頭|剃《そ》りかけしを周章《あわ》て立さはぎ天井の板の厚き所はないかと逃廻り脱捨し単羽織《ひとへばおり》の有程引かぶり、桑原桑原と身を縮めかた隅に倒臥《たふれふし》たるをかしさ』
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には、滑稽《こつけい》があるけれども、西鶴ものには無限の哀韻があり、雷鳴を機縁とした人生の悲劇を描写してゐるのも、西鶴の地金の一面であつただらう。
 けれども現代は、さういふ愚直な悲痛は跡を絶つて、ほんのりとした人情を好むやうになつてゐる。菊池寛の「新道」にも雷雨を縁として男女の交会するところを写してゐるが、これには武道伝来記にあるやうな滑稽が無くて、従つて甘美で、悲劇に導くやうなことがない。そして当今の青年男女は
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