暗緑に塗つたかとおもふと、雷神の方を白い胡粉《ごふん》で塗つて居る。これも先蹤《せんしよう》があつて宗達の工夫がそんなに働いてゐないのかも知れないが、雷神の方を白くする方が、配合のいろいろな関係でやはり動かないところであらうか。そしてあれならば大名などが静謐《せいひつ》な部屋に置いて落著《おちつ》いて鑑賞することも出来るし、光琳《くわうりん》、抱一《はういつ》の二家が臨摸《りんぼ》して後の世まで伝はつてゐるのもさういふわけ合《あひ》で、肉体的に恐ろしくないからである。
そこで、レヴユーといふものが次から次へと変化発達して行つてゐるが、西暦一九二四年ごろの巴里《パリ》の本場でも、あんな風に美女が皎《しろ》い歯を見せつつ、長い脚を一斉に上げたり下げたり、米搗《こめつき》の杵《きね》が一斉に臼《うす》の中に落ちたり上つたりするやうな具合にまでは行つてゐなかつたやうであるが、当今ではあんな風にまで発達した。
若し長い脚の美女たちが、白い雷神の面をば丁度越後獅子のするやうに額のところに冠つて、巴里のムーランルージユあたりの舞台で一斉にレヴユーをやつたら喝采《かつさい》を博すだらう。長い脚が一斉に動く時に、背負つてゐる小さい太鼓の列も一つの集団的な運動の役目を補助するだらう。
三
旧約詩篇に、『なんぢの雷鳴《いかづち》のこゑ』、『ヱホバは天に雷鳴《いかづち》をとどろかせたまへり』とあつたり、フアウストに、『日は合唱の音を立ててゐる。そして霹靂《へきれき》の歩みをして、極《き》まつた軌道を行く処まで行く』などとあるのは、ただの天然顕象として取扱つてゐないが、宗達画風のああいふ形態ではない。
雷電は夏季のものとされてゐるが、春雷冬雷の語はまた特殊の気味を持つてゐる。昭和五年十一月であつた。満洲里では連日細かい雪が降つたが、南下すると雪が少く四平街では雪が無かつた。
四平街に一泊し翌日|鄭家屯《ていかとん》に行つた。私を導いた八木沼氏が、鴻雁《こうがん》の南下する壮大な光景を私に見せようと思つたのであつた。鄭家屯は遼源《れうげん》ともいひ今ではその方が通りが好いが、其処《そこ》の近くにオポ山といふ小山がある。
その山に登れば雁の飛ぶのを見ることが出来るだらうといふので、鄭家屯の満鉄支社長宅に一泊し、水害で荒された道を馬車で難行して、オポ山に登り、荒涼といはうか、混沌《こんとん》といはうか、渺漠《べうばく》といはうか、一目|茫々《ばうばう》たる国土を見おろしたが、その時にも到頭雁が飛ばなかつた。
翌日、方向を間違へて四平街の方へ乗るところを通遼の方へ乗つた。停車場を三つばかり通過してからやつと気がついて、四平街の方向に乗換へた。程経て車房の中に八木沼氏と車中の客と支那語で問答しつつ分かりにくくて幾たびも繰返してゐると、其処に一人の白い手術著を著《き》た支那人が入つて来て日本語で通弁して呉れた。
その人は、名古屋の医科大学を出た医学士で、そのへんにペストが流行してゐるので、車中の客の健康診断をもしてゐるのであつた。氏はドイツ語をも解し、『只今《ただいま》流行してゐますのはドリユゼンペストです』などと話して呉れた。
氏は四平街まで来ずに途中で下車し、助手を一人連れてゐた。なかなか威張つてゐたので私等も肩身が広かつた。
その医学士とわかれて、窓外を見ると、半天に雲がひろがりつつあつた。一方の天が晴れて澄みきつて居るのに、一方には綿のやうなむくむくとした雲がひろがつて来るその動きが見える。その動きが相当の速さであることは汽車の速力と比較すれば分かる。そのうち雲のなかで雷鳴がした。
日本本土では天の範囲が狭いから那須野のやうなところにゐても、雲が天を蔽《おほ》ふといふやうなことも稀《まれ》でないが、満洲の天は前後左右が唯渺漠としてゐて雷雲が天に充満するなどといふことは、実に容易ならぬことである。
雷鳴も追々遠くなり、豪雨の降らざる冬雷として私の記憶に残つた。またそのとき始めて雁の一群を見ることの出来たのも、私の記念として歌一首に残つた。私は斯《か》くのごとき渺漠とした満洲の風光を愛して措《お》かないが、そのうち満洲帝国が興つたので、二たび満洲の雷鳴を聞きたいとおもつてゐる。
底本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店
1981(昭和56)年11月27日第1刷発行
初出:「東京朝日新聞」
1937(昭和12)年8月25〜27日
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2006年10月18日作成
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