八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、「時は来向ふ」を学んだものである。人麿以後の万葉歌人等で人麿を学んだ者が一人二人にとどまらない。言葉を換えていえば人麿は万葉集に於て最もその真価を認められたものである。後世人麿を「歌聖」だの何のと騒いだが、上《うわ》の空の偶像礼拝に過ぎぬ。
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※[#「女+釆」、上−44−9]女《うねめ》の袖《そで》吹《ふ》きかへす明日香風《あすかかぜ》都《みやこ》を遠《とほ》みいたづらに吹く 〔巻一・五一〕 志貴皇子
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明日香《あすか》(飛鳥)の京から藤原《ふじわら》の京に遷《うつ》られた後、明日香のさびれたのを悲しんで、志貴皇子《しきのみこ》の詠まれた御歌である。遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だということになる。※[#「女+釆」、上−44−13]女《うねめ》(采女)は諸国から身分も好く(郡の少領以上)容貌も端正な妙齢女を選抜して宮中に仕えしめたものである。駿河※[#「女+釆」、上−44−14]女[#「※[#「女+釆」、上−44−14]女」に白丸傍点](巻四)駿河采
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