へおもふに」などの句は無いが、全体としてそういう感情が奥にかくれているもののようである。そういう気持があるために、「かへりみすれば月かたぶきぬ」の句も利《き》くので、先師伊藤左千夫が評したように、「稚気を脱せず」というのは、稍《やや》酷ではあるまいか。人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し写生しているのであるが、それが即ち犯すべからざる大きな歌を得る所以《ゆえん》となった。
「野に・かぎろひの」のところは所謂《いわゆる》、句割れであるし、「て」、「ば」などの助詞で続けて行くときに、たるむ虞《おそれ》のあるものだが、それをたるませずに、却って一種|渾沌《こんとん》の調を成就しているのは偉いとおもう。それから人麿は、第三句で小休止を置いて、第四句から起す手法の傾《かたむき》を有《も》っている。そこで、伊藤左千夫が、「かへり見すれば」を、「俳優の身振めいて」と評したのは稍見当の違った感がある。
此歌は、訓がこれまで定まるのに、相当の経過があり、「東野《あづまの》のけぶりの立てるところ見て」などと訓んでいたのを、契沖、真淵等の力で此処まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである。守
前へ
次へ
全531ページ中62ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング