とりというぐらいの意に取ってよいが、滝下《たきしも》より滝上《たきかみ》の感じである。この初句は、「石激」で旧訓イハソソグであったのを、考《こう》でイハバシルと訓《よ》んだ。なお、類聚古集《るいじゅうこしゅう》に「石灑」とあるから、「石《いは》そそぐ」の訓を復活せしめ、「垂水」をば、巌の面をば垂れて来る水、たらたら水の程度のものと解釈する説もあるが、私は、初句をイハバシルと訓《よ》み、全体の調子から、やはり垂水《たるみ》をば小滝ぐらいのものとして解釈したく、小さくとも激湍《げきたん》の特色を保存したいのである。
この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、然かも平板《へいばん》に堕《おち》ることなく、細かい顫動《せんどう》を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御懽びの心が即ち、「さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この「けるかも」と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、「昔見し象《きさ》の小河を
前へ
次へ
全531ページ中299ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング