く、神聖なる場面と関聯し、橿原《かしはら》の畝火《うねび》の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木《ゆき》なれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]湯気《コエテユケ》だとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依《よる》に、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂《サヤギ》なき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而《トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ》、中洲之地無風塵《ウチツクニハヤスラケシ》てふと同意なるにて知《しり》ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差《さす》也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃《キノクニノ》と訓《よむ》べし。又右の紀に、辺土と中州を対《むかへ》云《いひ》しに依ては、此五字を外
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