を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を直《ただち》にあらわしているのが、やがて普通の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅とは違ったこととなったのである。写生の妙諦《みょうてい》はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。
中大兄皇子の、「香具《かぐ》山と耳成《みみなし》山と会ひしとき立ちて見に来し印南《いなみ》国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「嬬《つま》を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、斯《かか》る客観的荘厳を成就《じょうじゅ》せられた。
皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》)、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知
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