ので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを須《もち》いない。この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い簡勁《かんけい》にして静和な響をたたえている。
 額田王は右の御歌に「古《いにしへ》に恋ふらむ鳥は霍公鳥《ほととぎす》けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て和《こた》えている。皇子の御歌には杜鵑《ほととぎす》のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。そして、額田王も亦《また》古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して
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