皇子
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 文武天皇が慶雲三年(九月二十五日から十月十二日まで)難波《なにわ》宮に行幸あらせられたとき志貴皇子《しきのみこ》(天智天皇の第四皇子、霊亀二年薨)の詠まれた御歌である。難波宮のあったところは現在明かでない。
 大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼《はね》に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。鴨でも共寝をするのにという意も含まれている。
「葦べ行く鴨」という句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまわぬだろう。「葦べゆく鴨の羽音のおとのみに」(巻十二・三〇九〇)、「葦べ行く雁の翅《つばさ》を見るごとに」(巻十三・三三四五)、「鴨すらも己《おの》が妻どちあさりして」(巻十二・三〇九一)等の例があり、参考とするに足る。
 志貴皇子の御歌は、その他のもそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。この歌でも、鴨の羽交《はがい》に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は空漠《くうばく》たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。そこで、「霜ふりて」と断定した表現が利くのである。「葦べ行く」という句にしても稍《やや》ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写象はただのぼんやりではない。
 集中には、「埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる己が尾に零《ふ》り置ける霜を払ふとならし」(巻九・一七四四)、「天飛ぶや雁の翅《つばさ》の覆羽《おほひは》の何処《いづく》もりてか霜の降りけむ」(巻十・二二三八)、「押し照る難波ほり江の葦べには雁|宿《ね》たるかも霜の零《ふ》らくに」(同・二一三五)等の歌がある。

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あられうつ安良礼松原《あられまつばら》住吉《すみのえ》の弟日娘《おとひをとめ》と見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔巻一・六五〕 長皇子
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 長皇子《ながのみこ》(天武天皇第四皇子)が、摂津の住吉海岸、安良礼松原で詠まれた御歌で、其処にいた弟日娘《おとひおとめ》という美しい娘と共に松原を賞したもうた時の御よろこびである。この歌の「と」の用法につき、あられ松原と[#「と」に白丸傍点]弟日娘と[#「と」に白丸傍点]両方とも見れど飽きないと解く説もある。娘は遊行女婦《うかれめ》であったろうから、美しかったものであろう。初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と看做《みな》していい。一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ勁健《けいけん》とも謂《い》うべき歌調である。これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。「若狭《わかさ》なる三方の海の浜|清《きよ》みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ八十《やそ》の島廻《しまみ》を榜《こ》ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる九月《ながつき》のありあけの月夜《つくよ》見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。
 この歌の近くに、清江娘子《すみのえのおとめ》という者が長皇子に進《たてまつ》った、「草枕旅行く君と知らませば岸《きし》の埴土《はにふ》ににほはさましを」(巻一・六九)という歌がある。この清江娘子は弟日娘子《おとひおとめ》だろうという説があるが、或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。住吉の岸の黄土で衣を美しく摺《す》って記念とする趣である。「旅ゆく」はいよいよ京へお帰りになることで、名残を惜しむのである。情緒が纏綿《てんめん》としているのは、必ずしも職業的にのみこの媚態《びたい》を示すのではなかったであろう。またこれを万葉巻第一に選び載せた態度もこだわりなくて円融《えんゆう》とも称すべきものである。

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大和《やまと》には鳴《な》きてか来《く》らむ呼子鳥《よぶこどり》象《きさ》の中山《なかやま》呼《よ》びぞ越《こ》ゆなる 〔巻一・七〇〕 高市黒人
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 持統天皇が吉野の離宮に行幸せられた時、扈従《こじゅう》して行った高市連黒人《たけちのむらじくろひと》が作った。呼子鳥はカッコウかホトトギスか、或は両者ともにそう云われたか、未だ定説が無いが、カッコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云った場合が最も多いようである。「象の中山」
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