き」を肯定してもよく、その方が甘く切実で却っておもしろいと思って今回は二たびそう解釈することとした。この歌は以上選んだ娘子の歌の中では一番よい。
「ほとほとしにき」は、原文「保等保登之爾吉」であって、「ホトホトシニキハ、驚テ胸ノホトバシルナリ」(代匠記精撰本)というのが第一説で、古義もそれに従った。鈴屋答問録《すずのやとうもんろく》に、「ほと」は俗言の「あわ(は)てふためく」の「ふた」に同じいとあるのも参考となるだろう。それから、「ほとんど死《しに》たりとなり。うれしさのあまりになるべし」(拾穂抄《しゅうすいしょう》)は第二説で、「殆将死なり。あまりてよろこばしきさまをいふ」(考)、「しにきは死にき也」(略解)。古事記伝、新考、新訓等もこの第二説である。集中、「君を離れて恋に之奴倍之《シヌベシ》」(巻十五・三五七八)があるから、「之爾」を「死に」と訓んで差支のないことが分かる。
[#改ページ]

巻第十六

           ○

[#ここから5字下げ]
春《はる》さらば※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]頭《かざし》にせむと我《わ》が思《も》ひし桜《さくら》の花《はな》は散《ち》りにけるかも 〔巻十六・三七八六〕 壮士某
[#ここで字下げ終わり]
 むかし桜子《さくらこ》という娘子《おとめ》がいたが、二人の青年に挑《いど》まれたときに、ひとりの女身《にょしん》を以て二つの門に往き適《かの》う能《あた》わざるを嘆じ、林中に尋ね入ってついに縊死《いし》して果てた。二人の青年がそれを悲しみ作った歌の一つである。桜子という娘の名であったから、桜の花の散ったことになして詠んだ、取りたてていう程のものでない、妻争い伝説歌の一つに過ぎないが、素直《すなお》に歌ってあるので見本として選んで置いた。この伝説は真間《まま》の手児名《てこな》、葦屋《あしや》の菟原処女《うなひおとめ》の伝説などと同じ種類のものである。「かざしにせんとは、我妻にせんとおもひしと云心也」(宗祇抄《そうぎしょう》)とある如く、また桜児という名であったから、「散りにけるかも」と云った。

           ○

[#ここから5字下げ]
事《こと》しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも隠《こも》らば共《とも》にな思《おも》ひ吾背《わがせ》 〔巻十六・三八〇六〕 娘子某
[#ここで字下げ終わり]
 むかし娘がいたが、父母に知らせず窃《ひそ》かに一人の青年に接した。青年は父母の呵嘖《かしゃく》を恐れて、稍《やや》猶予のいろが見えた時に、娘が此歌を作って青年に与えたという伝説がある。「小泊瀬山」の「を」は接頭詞、泊瀬山、今の初瀬《はせ》町あたり一帯の山である。「石城《いはき》」は石で築いた廓《かく》で此処は墓のことである。この歌も普通の歌で、男がぐずぐずしているのに、女が強くなる心理をあらわしたものである。前の歌は実徳の上からいえば、貞になり、これもまた貞の一種になるかも知れない。親をも措《お》いて男に従うという強い心に感動せられて伝説が成立すること、他の歌の例を見ても明かである。「な思ひ、我が背」の口調は強いが、女らしい甘い味いがある。毛詩に、「死則同[#(セム)][#レ]穴」とあるのは人間共通の合致《がっち》であるだろう。

           ○

[#ここから5字下げ]
安積山《あさかやま》影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が思《も》はなくに 〔巻十六・三八〇七〕 前の采女某
[#ここで字下げ終わり]
 葛城王《かずらきのおおきみ》が陸奥国《みちのくのくに》に派遣せられたとき、国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒って折角《せっかく》の御馳走にも手をつけない。その時、嘗《かつ》て采女《うねめ》をつとめたことのある女が侍していて、左手に杯《さかずき》を捧げ右手に水を盛った瓶子《へいし》を持ち、王の膝《ひざ》をたたいて此歌を吟誦したので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、という伝説ある歌である。葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄《たちばなのもろえ》が皇族であった時の御名は葛城王であったから、そのいずれとも不明であるが、時代からいえば天武天皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であってもかまわぬのである。また、「前《さき》の采女」という女も、嘗《かつ》て采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女とする必要もないわけである。「安積《あさか》山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云われている。木立などが美しく映っている広く浅い山の泉の趣で、上の句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接せしめている。「浅き心を吾が
前へ 次へ
全133ページ中118ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング