五)
夜《よる》光《ひか》る玉《たま》といふとも酒《さけ》飲《の》みて情《こころ》を遣《や》るに豈《あに》如《し》かめやも (同・三四六)
世《よ》の中《なか》の遊《あそ》びの道《みち》に冷《すず》しきは酔哭《ゑひなき》するにありぬべからし (同・三四七)
この代《よ》にし楽《たぬ》しくあらば来《こ》む世《よ》には虫《むし》に鳥《とり》にも吾《われ》はなりなむ (同・三四八)
生者《いけるもの》遂《つひ》にも死《し》ぬるものにあれば今世《このよ》なる間《ま》は楽《たぬ》しくをあらな (同・三四九)
黙然《もだ》居《を》りて賢《さか》しらするは酒《さけ》飲《の》みて酔泣《ゑひなき》するになほ如《し》かずけり (同・三五〇)
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 残りの十二首は即ち右の如くである。一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、如何に旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表わしている。その支那文学の影響については先覚の諸注釈書に譲るけれども、顧《かえりみ》れば此等の歌も、当時にあっては、今の流行語でいえば最も尖端的なものであっただろうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍遊離した態度と謂うべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。今、選抜の歌に限あるため、一首のみを取って全体を代表せしめることとした。

           ○

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武庫《むこ》の浦《うら》を榜《こ》ぎ回《た》む小舟《をぶね》粟島《あはしま》を背向《そがひ》に見《み》つつともしき小舟《をぶね》 〔巻三・三五八〕 山部赤人
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 山部赤人の歌六首中の一首である。「武庫の浦」は、武庫川の河口から西で、今の神戸あたり迄一帯をいった。「粟島」は巻九(一七一一)に、「粟の小島し見れど飽かぬかも」とある、「粟の小島」と同じ場処であろうが、現在何処に当るか不明である。淡路の北端あたりだろうという説がある。一首の意は、武庫の浦を榜ぎめぐり居る小舟よ。粟島を横斜に見つつ榜ぎ行く、羨しい小舟よ、というので、「小舟」を繰返していても、あらあらしくないすっきりした感じを与えている。あとの五首も大体そういう特色のものだから、此一首を以て代表せしめた。
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繩《なは》の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奥《おき》つ島|榜《こ》ぎ回《た》む舟は釣し(釣を)すらしも (巻三・三五七)
阿倍《あべ》の島|鵜《う》の住む磯に寄する浪|間《ま》なくこのごろ大和し念《おも》ほゆ (同・三五九)
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吉野《よしぬ》なる夏実《なつみ》の河《かは》の川淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴《な》くなる山《やま》かげにして 〔巻三・三七五〕 湯原王
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 湯原王《ゆはらのおおきみ》が吉野で作られた御歌である。湯原王の事は審《つまびらか》でないが、志貴皇子《しきのみこ》の第二子で光仁天皇の御兄弟であろう。日本後紀に、「延暦廿四年十一月(中略)壱志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子」云々とある。「夏実」は吉野川の一部で、宮滝の上流約十町にある。今菜摘と称している。(土屋氏に新説ある。)
 一首の意は、吉野にある夏実の川淵に鴨が鳴いている。山のかげの静かなところだ、というので、これは現に鴨の泳いでいるのを見て作ったものであろう。結句の、「山かげにして」は、鴨の泳いでいる夏実の淀淵の説明だが、結果から云えば一首に響く大切な句で、作者の感慨が此処にこもり、意味は場処の説明でも、一首全体の声調からいえばもはや単なる説明ではなくなっている。こういう結句の効果については、前出の人麿の歌(巻三・二五四)の処でも説明した。此歌は従来叙景歌の極致として取扱われたが、いかにもそういうところがある。ただ佳作と評価する結論のうちに、抒情詩としての声調という点を抜きにしてはならぬのである。また此歌の有名になったのは、一面に万葉調の歌の中では分かり好いためだということもある。一首の中に、「なる」の音が二つもあり、加行の音の多いのなども分析すれば分析し得るところである。

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軽《かる》の池《いけ》の浦《うら》回行《みゆ》きめぐる鴨《かも》すらに玉藻《たまも》のうへに独《ひと》り宿《ね》なくに 〔巻三・三九〇〕 紀皇女
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 紀皇女《きのひめみこ》の御歌で、皇女は天武天皇皇女で、穂積皇子《ほづみのみこ》の御妹にあられる。一首の意は、軽の池の岸のところを泳ぎ廻っているあの鴨でも、玉藻の上にただ一つで寝
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