れは都へのぼるのであろう。羨しいことだ、というので、今から見れば※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅の歌の常套《じょうとう》手段のようにも取れるが、当時の歌人にとっては常に実感であったのであろう。黒人の歌は具象的で写象も鮮明だが、人麿の歌調ほど切実でないから、「もの恋しき」と云ったり、「古への人にわれあれや」等と云っても、稍通俗に感ぜしめる余裕がある。巻一(六七)に、「旅にしてもの恋《こほ》しぎの鳴くことも聞えざりせば恋ひて死なまし」は持統天皇難波行幸の時、高安大島《たかやすのおおしま》の作ったものだが、上の句が似ている。

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桜田《さくらだ》へ鶴《たづ》鳴《な》きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴《たづ》鳴《な》きわたる 〔巻三・二七一〕 高市黒人
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 黒人作。※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首の一。「桜田《さくらだ》」は、和名鈔の尾張国愛知郡|作良《さくら》郷、現在熱田の東南方に桜がある。その桜という海浜に近い土地の田の事である。或は桜田という地名だという説もある。「年魚市《あゆち》潟」は、和名鈔に尾張国愛知郡|阿伊智《あいち》とあり、熱田南方の海岸一帯が即ち年魚市(書紀に吾湯市)潟で、桜はその一部である。今の熱田新田と称する辺も古《いにし》えは海だったろうと云われている。一首の意味は、陸の方から海に近い桜の田の方へ向って、鶴が群れて通って行くが、多分年魚市潟一帯が潮干になったのであろう、というのである。一首の中に地名が二つも入って居て、それに「鶴鳴きわたる」を二度繰返しているのだから、内容からいえば極く単純なものになってしまった。併し一首全体が高古の響を保持しているのは、内容がこせこせしない為めであり、「桜田へ鶴鳴きわたる」という唯一の現在的内容が却って鮮明になり、一首の風格も大きくなった。そのあいだに、「年魚市潟潮干にけらし」という推量句が入っているのだが、この推量も大体分かっている現実的推量で、ただぼんやりした想像ではないのが特色である。けれどもこの歌は、桜田が主で、桜田を眺める位置に作者が立っている趣で、あゆち潟というのはもっと離れているところであろう。一首の形態からいうと、前出の、「吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり」(巻二・九五)などと殆ど同じである。また内容からいうと、「年魚市潟潮干にけらし知多《ちた》の浦に朝|榜《こ》ぐ舟も沖に寄る見ゆ」(巻七・一一六三)「可之布江《かしふえ》に鶴鳴きわたる志珂《しか》の浦に沖つ白浪立ちし来らしも」(巻十五・三六五四)など類想の歌が多い。おなじ黒人の歌でも、「住吉《すみのえ》の得名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫の泊《とまり》ゆ出づる舟人」(巻三・二八三)は、少しく楽《らく》過ぎて、人麿の「乱れいづ見ゆあまの釣舟」(同・二五六)には及ばない。けれども黒人には黒人の本領があり、人麿の持っていないものがあるから、それを見のがさないように努むべきである。
 此処の、「四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫《かさぬひ》の島榜ぎかくる棚無し小舟《をぶね》」(同・二七二)も佳作で、後年山部赤人に影響を与えたものである。四極《しはつ》山、笠縫《かさぬい》島は参河《みかわ》という説と摂津という説とあるが、今は仮りに契沖以来の、参河国|幡豆《はず》郡磯泊(之波止《シハト》)説に従って味うこととする。また、「妹も吾も一つなれかも三河なる二見《ふたみ》の道ゆ別れかねつる」(同・二七六)というのもある。三河の二見は御油《ごゆ》から吉田《よしだ》に出る二里半余の道だといわれている。「妹《いも》」は、かりそめに親しんだそのあたりの女であろう。上句は、お前も俺《おれ》も一体だからだろうと気転を利かしたいい方である。黒人のには上半にこういう主観句のものが多い。それが成功したのもあればまずいのもある。

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何処《いづく》にか吾《われ》は宿《やど》らむ高島《たかしま》の勝野《かちぬ》の原《はら》にこの日《ひ》暮《く》れなば 〔巻三・二七五〕 高市黒人
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 黒人作。※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅歌つづき。「高島の勝野」は、近江《おうみ》高島郡三尾のうち、今の大溝町である。黒人の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅の歌はこれを見ても場処の移動につれ、その時々に詠んだことが分かる。これは勝野の原の日暮にあって詠んだので、それが現実的内容で、「何処にか吾は宿らむ」はそれに伴う自然的詠歎である。かく詠歎を初句第二句に置くのは、黒
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