回もミダルに従った。若し、マヰリクラクモと訓むとすると、「ふる雪を腰になづみて参《まゐ》り来し験《しるし》もあるか年のはじめに」(巻十九・四二三〇)が参考となる歌である。

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もののふの八十《やそ》うぢ河《がは》の網代木《あじろぎ》にいさよふ波《なみ》のゆくへ知《し》らずも 〔巻三・二六四〕 柿本人麿
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 柿本人麿が近江から大和へ上ったとき宇治川のほとりで詠んだものである。「もののふの八十氏《やそうぢ》」は、物部《もののふ》には多くの氏《うじ》があるので、八十氏《やそうじ》といい、同音の宇治川《うじがわ》に続けて序詞とした。網代木《あじろぎ》は、網の代用という意味だが、これは冬宇治川の氷魚《ひお》を捕るために、沢山の棒杭を水中に打ち、恐らく上流に向って狭くなるように打ったと思うが、其処が水流が急でないために魚が集って来る、それを捕るのである。其処の棒杭に水が停滞して白い波を立てている光景である。
 この歌も、「あまざかる夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ」の歌のように、直線的に伸々《のびのび》とした調べのものである。この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作歌態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばならぬ。そうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且つ無限の哀韻を感得することが出来る。この哀韻は、「いさよふ波の行方《ゆくへ》知らず」にこもっていることを知るなら、上の句の形式的に過ぎない序詞は、却って下の句の効果を助長せしめたと解釈することも出来るのである。この限り無き哀韻は、幾度も吟誦してはじめて心に伝わり来るもので、平俗な理論で始末すべきものではない。
 この哀韻は、近江旧都を過ぎた心境の余波だろうとも説かれている。これは否定出来ない。なおこの哀韻は支那文学の影響、或は仏教観相の影響だろうとも云われている。人麿ぐらいな力量を有《も》つ者になれば、その発達史も複雑で、支那文学も仏教も融《と》けきっているとも解釈出来るが、この歌の出来た時の人麿の態度は、自然への観入・随順であっただけである。その関係を前後混同して彼此《かれこれ》云ったところで、所詮《しょせん》戯論に終わるので、理窟は幾何《いくら》精《くわ》しいようでも、この歌から遊離した上《うわ》の空《そら》の言辞ということになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として軽蔑するが、自分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである。

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苦《くる》しくも降《ふ》り来《く》る雨《あめ》か神《みわ》が埼《さき》狭野《さぬ》のわたりに家《いへ》もあらなくに 〔巻三・二六五〕 長奥麻呂
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 長忌寸奥麻呂《ながのいみきおきまろ》(意吉麻呂)の歌である。神が埼(三輪崎)は紀伊国東|牟婁《むろ》郡の海岸にあり、狭野《さぬ》(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。「わたり」は渡し場である。第二句で、「降り来る雨か」と詠歎して、愬《うった》えるような響を持たせたのにこの歌の中心があるだろう。そして心が順直に表わされ、無理なく受納れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。弁基《べんき》(春日蔵首老《かすがのくらびとおゆ》)の歌に、「まつち山ゆふ越え行きていほさきの角太河原《すみたかはら》にひとりかも寝む」(巻三・二九八)というのがあるが、この頃の人々は、自由に作っていて感のとおっているのは気持が好い。
 近時土屋文明氏は、「神之埼」をカミノサキと訓む説を肯定し、また紀伊新宮附近とするは万葉時代交通路の推定から不自然のようにおもわれることを指摘し、和泉《いずみ》日根郡の神前を以て擬するに至った。また佐野も近接した土地で共に万葉時代から存在した地名と推定することも出来、和泉ならば紀伊行幸の経路であるから、従駕の作者が詠じたものと見ることが出来るというのである。

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淡海《あふみ》の海《うみ》夕浪《ゆふなみ》千鳥《ちどり》汝《な》が鳴《な》けば心《こころ》もしぬにいにしへ思《おも》ほゆ 〔巻三・二六六〕 柿本人麿
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 柿本人麿の歌であるが、巻一の近江旧都回顧の時と同時の作か奈何《どう》か不明である。「夕浪千鳥」は、夕べの浪の上に立ちさわぐ千
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