わり]
 人麿が日並皇子尊殯宮の時作った中の、或本歌一首というのである。「勾《まがり》の池」は島の宮の池で、現在の高市《たかいち》郡高市村の小学校近くだろうと云われている。一首の意は、勾の池に放《はな》ち飼《がい》にしていた禽鳥《きんちょう》等は、皇子尊のいまさぬ後でも、なお人なつかしく、水上に浮いていて水に潜《くぐ》ることはないというのである。
 真淵は此一首を、舎人《とねり》の作のまぎれ込んだのだろうと云ったが、舎人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るようである。例えば、「島の宮|上《うへ》の池なる放ち鳥荒びな行きそ君|坐《ま》さずとも」(巻二・一七二)、「御立《みたち》せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるまで」(同・一八〇)など、内容は類似しているけれども、何処か違うではないか。そこで参考迄に此一首を抜いて置いた。

           ○

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東《ひむがし》の滝《たぎ》の御門《みかど》に侍《さもら》へど昨日《きのふ》も今日《けふ》も召《め》すこともなし 〔巻二・一八四〕 日並皇子宮の舎人
あさ日《ひ》照《て》る島《しま》の御門《みかど》におぼほしく人音《ひとおと》もせねばまうらがなしも 〔巻二・一八九〕 同
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 日並の皇子尊に仕えた舎人等が慟傷《どうしょう》して作った歌二十三首あるが、今その中二首を選んで置いた。「東の滝の御門」は皇子尊の島の宮殿の正門で、飛鳥《あすか》川から水を引いて滝をなしていただろうと云われている。「人音もせねば」は、人の出入も稀に寂《さび》れた様をいった。
 大意。第一首。島の宮の東門の滝の御門に伺候して居るが、昨日も今日も召し給うことがない。嘗《かつ》て召し給うた御声を聞くことが出来ない。第二首。嘗て皇子尊の此世においでになった頃は、朝日の光の照るばかりであった島の宮の御門も、今は人の音ずれも稀になって、心もおぼろに悲しいことである、というのである。
 舎人等の歌二十三首は、素直に、心情を抒《の》べ、また当時の歌の声調を伝えて居る点を注意すべきであるが、人麿が作って呉れたという説はどうであろうか。よく読み味って見れば、少し楽《らく》でもあり、手の足りないところもあるようである。なお二十三首のうちには次の如きもある。
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朝日てる佐太の岡べに群れゐつつ吾が哭《な》く涙やむ時もなし(巻二・一七七)
御立せし島の荒磯《ありそ》を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(同・一八一)
あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも(同・一八八)
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敷妙《しきたへ》の袖交《そでか》へし君《きみ》玉垂《たまだれ》のをち野《ぬ》に過《す》ぎぬ亦《また》も逢《あ》はめやも 〔巻二・一九五〕 柿本人麿
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 この歌は、川島《かわしま》皇子が薨《こう》ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部《はつせべ》皇女と忍坂部《おさかべ》皇子とに献《たてまつ》った歌である。川島皇子(天智天皇第二皇子)は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御関係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御両人に同時に御見せ申したと解していい。「敷妙の」も、「玉垂の」もそれぞれ下の語に懸《かか》る枕詞である。「袖|交《か》へし」のカフは波《は》行下二段に活用し、袖をさし交《かわ》して寝ることで、「白妙の袖さし交《か》へて靡《なび》き寝《ね》し」(巻三・四八一)という用例もある。「過ぐ」とは死去することである。
 一首は、敷妙の袖をお互に交《か》わして契りたもうた川島皇子の君は、今|越智野《おちぬ》(大和国高市郡)に葬られたもうた。今後二たびお逢いすることが出来ようか、もうそれが出来ない、というのである。
 この歌は皇女の御気持になり、皇女に同情し奉った歌だが、人麿はそういう場合にも自分の事のようになって作歌し得たもののようである。そこで一首がしっとりと充実して決して申訣《もうしわけ》の余所余所《よそよそ》しさというものが無い。第四句で、「越智野に過ぎぬ」と切って、二たび語を起して、「またもあはめやも」と止めた調べは、まことに涙を誘うものがある。

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零《ふ》る雪《ゆき》はあはにな降《ふ》りそ吉隠《よなばり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の塞《せき》なさまくに 〔巻二・二〇三〕 穂積皇子
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 但馬《たじま》皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷|流涕《りゅうてい》して作られた歌である。皇女と皇
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