ので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを須《もち》いない。この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い簡勁《かんけい》にして静和な響をたたえている。
額田王は右の御歌に「古《いにしへ》に恋ふらむ鳥は霍公鳥《ほととぎす》けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て和《こた》えている。皇子の御歌には杜鵑《ほととぎす》のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。そして、額田王も亦《また》古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して遜色《そんしょく》があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。
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人言《ひとごと》をしげみ言痛《こちた》みおのが世《よ》にいまだ渡《わた》らぬ朝川《あさかは》わたる 〔巻二・一一六〕 但馬皇女
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但馬皇女《たじまのひめみこ》(天武天皇皇女)が穂積皇子《ほづみのみこ》(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向《ほむき》のよれる片寄りに君に寄りなな言痛《こちた》かりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、窃《ひそ》かに穂積皇子に接せられたのが露《あら》われた時の御歌である。
「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を牽《ひ》く。特に皇女が皇子に逢うために、秘《ひそ》かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。
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石見《いはみ》のや高角山《たかつぬやま》の木《こ》の間《ま》よりわが振《ふ》る袖《そで》を妹《いも》見《み》つらむか 〔巻二・一三二〕 柿本人麿
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柿本人麿が石見《いわみ》の国から妻に別れて上京する時詠んだものである。当時人麿は石見の国府(今の那賀《なか》郡|下府上府《しもこうかみこう》)にいたもののようである。妻はその近くの角《つぬ》の里《さと》(今の都濃津《つのつ》附近)にいた。高角山は角の里で高い山というので、今の島星山《しまのほしやま》であろう。角の里を通り、島星山の麓を縫うて江川《ごうのがわ》の岸に出たもののようである。
大意。石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。
角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。
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小竹《ささ》の葉《は》はみ山《やま》もさやに乱《みだ》れども吾《われ》は妹《いも》おもふ別《わか》れ来《き》ぬれば 〔巻二・一三三〕 柿本人麿
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前の歌の続きである。人麿が馬に乗って今の邑智《おおち》郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から赤名越《あかなごえ》をし、備後《びんご》にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。
大意。今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき乱《みだ》れていても、わが心はそれに紛《まぎ》れることなくただ一向《ひたすら》に、別れて来た妻のことをおもっている。
今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも拘《かか》わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のため
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