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巻第一

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たまきはる宇智《うち》の大野《おほぬ》に馬《うま》並《な》めて朝《あさ》踏《ふ》ますらむその草《くさ》深野《ふかぬ》 〔巻一・四〕 中皇命
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 舒明《じょめい》天皇が、宇智野《うちぬ》、即《すなわ》ち大和|宇智《うち》郡の野(今の五条町の南、阪合部《さかあいべ》村)に遊猟したもうた時、中皇命《なかちすめらみこと》が間人連老《はしびとのむらじおゆ》をして献《たてまつ》らしめた長歌の反歌である。中皇命は未詳だが、賀茂真淵《かものまぶち》は荷田春満《かだのあずままろ》の説に拠《よ》り、「皇」の下に「女」を補って、「中皇女命《なかつひめみこのみこと》」と訓《よ》み、舒明天皇の皇女で、のち、孝徳天皇の后に立ちたもうた間人《はしびと》皇后だとし、喜田博士は皇后で後天皇になられた御方だとしたから、此処では皇極《こうぎょく》(斉明《さいめい》)天皇に当らせられる。即ち前説に拠れば舒明の皇女、後説に拠れば舒明の皇后ということになる。間人連老は孝徳天皇紀|白雉《はくち》五年二月遣唐使の判官に「間人連老」とあるその人であろう。次に作者は中皇命か間人連老か両説あるが、これは中皇命の御歌であろう。縦《よ》しんば間人連老の作という仮定をゆるすとしても中皇命の御心を以て作ったということになる。間人連老の作だとする説は、題詞に「御歌」となくしてただ「歌」とあるがためだというのであるが、これは編輯《へんしゅう》当時既に「御」を脱していたのであろう。考《こう》に、「御字を補ひつ」と云ったのは恣《ほしいまま》に過ぎた観があっても或《あるい》は真相を伝えたものかも知れない。「中大兄三山歌」(巻一・一三)でも「御」の字が無い。然るにこの三山歌は目録には「中大兄三山御歌」と「御」が入っているに就き、代匠記には「中大兄ハ天智天皇ナレバ尊《みこと》トカ皇子《みこ》トカ有《あり》ヌベキニヤ。傍例ニヨルニ尤《もっとも》有《ある》ベシ。三山ノ下ニ目録ニハ御ノ字アリ。脱セルカ」と云っている如く、古くから本文に「御」字の無い例がある。そして、「万葉集はその原本の儘《まま》に伝はり、改刪《かいさん》を経ざるものなるを思ふべし」(講義)を顧慮すると、目録の方の「御」は目録作製の時につけたものとも取れる。なお、この「御
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