天平十一年夏六月、大伴家持は亡妾を悲しんで、「妹が見し屋前《やど》に花咲き時は経ぬわが泣く涙いまだ干なくに」(巻三・四六九)という歌を作っている。これは明かに憶良の模倣であるから、家持もまた憶良の此一首を尊敬していたということが分かるのである。恐らく家持は此歌のいいところを味い得たのであっただろう。(もっとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る。)
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大野山《おほぬやま》霧《きり》たちわたる我《わ》が嘆《なげ》く息嘯《おきそ》の風《かぜ》に霧《きり》たちわたる 〔巻五・七九九〕 山上憶良
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此歌も前の続である。「大野山」は和名鈔《わみょうしょう》に、「筑前国御笠郡大野」とある、その地の山で、太宰府に近い。「おきそ」は、宣長は、息嘯《おきうそ》の略とし、神代紀に嘯之時《ウソブクトキニ》迅風忽起とあるのを証とした。
一首の意は、今、大野山を見ると霧が立っている、これは妻を歎く自分の長大息の、風の如く強く長い息のために、さ霧となって立っているのだろう、というので、神代紀に、「吹きうつる気噴《いぶき》のさ霧に」、万葉に、「君がゆく海べの屋戸に霧たたば吾《あ》が立ち嘆く息《いき》と知りませ」(巻十五・三五八〇)、「わが故に妹歎くらし風早《かざはや》の浦の奥《おき》べに霧棚引けり」(同・三六一五)、「沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを」(同・三六一六)等とあるのと同じ技法である。ただ万葉の此等の歌は憶良のこの歌よりも後であろうか。
此一首も、「霧たちわたる」を繰返したりして強く云っていて、線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の声調ほどの顫動が無い。例えば前出の、「ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず」(巻三・二五四)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は真面目になって骨折っているので、一首は質実にして軽薄でないのである。なお、天平七年、大伴坂上郎女が尼|理願《りがん》を悲しんだ歌に、「嘆きつつ吾が泣く涙、有間山雲居棚引き、雨に零《ふ》りきや」(巻三・四六〇)という句があり、同じような手法である。
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ひさかたの天道《あまぢ》は遠《とほ》しなほなほに家《いへ》に帰《かへ》りて業《
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