であったに相違ない。家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。第三句に、「あらましを」といい、結句に、「あらなくに」とあるのも重くして悲痛である。
なお、同時の御作に、「見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)がある。前の結句、「君もあらなくに」という句が此歌では第三句に置かれ、「馬疲るるに」という実事の句を以て結んで居るが、、この結句にもまた愬《うった》えるような響がある。以上の二首は連作で二つとも選《よ》っておきたいが、今は一つを従属的に取扱うことにした。
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現身《うつそみ》の人《ひと》なる吾《われ》や明日《あす》よりは二上山《ふたかみやま》を弟背《いろせ》と吾《わ》が見《み》む 〔巻二・一六五〕 大来皇女
磯《いそ》の上《うへ》に生《お》ふる馬酔木《あしび》を手折《たを》らめど見《み》すべき君《きみ》がありと云《い》はなくに 〔巻二・一六六〕 同
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大津皇子を葛城《かずらき》の二上山に葬った時、大来皇女《おおくのひめみこ》哀傷して作られた御歌である。「弟背《いろせ》」は原文「弟世」とあり、イモセ、ヲトセ、ナセ、ワガセ等の諸訓があるが、新訓のイロセに従った。同母兄弟をイロセということ、古事記に、「天照大御神之|伊呂勢《イロセ》」、「其|伊呂兄《イロセ》五瀬命」等の用例がある。
大意。第一首。生きて現世に残っている私は、明日からはこの二上山をば弟の君とおもって見て慕い偲《しの》ぼう。今日いよいよ此処に葬り申すことになった。第二首。石のほとりに生えている、美しいこの馬酔木の花を手折もしようが、その花をお見せ申す弟の君はもはやこの世に生きて居られない。
「君がありと云はなくに」は文字どおりにいえば、「一般の人々が此世に君が生きて居られるとは云わぬ」ということで、人麿の歌などにも、「人のいへば」云々とあるのと同じく、一般にそういわれているから、それが本当であると強めた云い方にもなり、兎《と》に角《かく》そういう云い方をしているのである。馬酔木については、「山もせに咲ける馬酔木の、悪《にく》からぬ君をいつしか、往きてはや見む」(巻八・一四二八)、「馬酔木なす栄えし君が掘りし井の」(巻七・一一二八)
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