、もとは大阪の職人であった。相当に腕が利《き》いたので暮しに事を欠くということがなかったのだが、ふと眼を患《わずら》って殆ど失明するまでになった。そこで慌《あわ》てて大阪医科大学の療治を乞うたけれども奈何《いか》にも思わしくない、そのうち一|眼《がん》はつぶれてしまった。それのみではなく、片方の眼もそろそろ見えなくなって来た。彼はせっぱつまって思い悩んだ揚句《あげく》、全く浮世を棄てて神仏にすがり四国遍路を思立った。然《しか》るに、居処《きょしょ》不定《ふじょう》の身となり霊場を巡《めぐ》っているうちに、片方の眼が少しずつ見えるようになって来た。彼はますます神仏にすがって到頭四国の遍路をおえた。その時には眼がよほど好く見えるようになった。
 その時彼は、もうこれぐらいで沢山である。もうそろそろ信心の方も見きりをつけて浮世の為事《しごと》をして見ようと思ったそうである。そして逡巡《しゅんじゅん》しているうちに、眼は二たび霞《かす》んで来てもとのようになりかけたそうである。
 彼は驚き心を決して二たび遍路の身になってしまった。そして既に数年を経た。きょうは小口の宿を立って熊野の方へ越えよう
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