遍路
斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)那智《なち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)国|諏訪《すわ》
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 那智《なち》には勝浦《かつうら》から馬車に乗って行った。昇り口のところに著《つ》いたときに豪雨が降って来たので、そこでしばらく休み、すっかり雨装束《あましょうぞく》に準備して滝の方へ上って行った。滝は華厳《けごん》よりも規模は小さいが、思ったよりも好かった。石畳《いしだたみ》の道をのぼって行くと僕は息切《いきぎ》れがした。
 さてこれから船見峠《ふなみとうげ》、大雲取《おおくもとり》を越えて小口《こぐち》の宿《しゅく》まで行こうとするのであるが、僕に行けるかどうかという懸念があるくらいであった。那智権現《なちごんげん》に参拝し、今度の行程について祈願をした。そこを出て来て、小さい寺の庫裡口《くりぐち》のようなところに、「魚商人門内通行禁」と書いてあり、その側に、「うをうる人とほりぬけならん」と註してあった。

 滝見屋《たきみや》というところで、腹《はら》をこしらえ、弁当を用意し、先達《せんだつ》を雇っていよいよ出発したが、この山越《やまごえ》は僕には非常に難儀なものであった。いにしえの「熊野道《くまのみち》」であるから、石が敷いてあるが、今は全く荒廃して雑草が道を埋めてしまっている。T君は平家《へいけ》の盛《さかん》な時の事を話し、清盛《きよもり》が熊野路からすぐ引返したことなども話してくれた。僕は一足ごとに汗を道におとした。それでも、山をのぼりつめて、くだりになろうというところに腰をおろして弁当を食いはじめた。道に溢《あふ》れて流れている水に口づけて飲んだり、梅干の種を向うの笹藪《ささやぶ》に投げたりして、出来るだけ長く休む方が楽《らく》であった。
 そこに一人の遍路《へんろ》が通りかかる。遍路は今日小口の宿を立って那智へ越えるのであるが、今はこういう山道を越える者などは殆《ほとん》ど絶えて、僕らのこの旅行などもむしろ酔興《すいきょう》におもえるのに、遍路は実際ただひとりしてこういう道を歩くのであった。遍路をそこに呼止め、いろいろ話していると、この年老いた遍路は信濃《しなの》の国|諏訪《すわ》郡のものであった。T君はあの辺の地理に精《くわ》しいので、直《す》ぐ遍路の村を知ることが出来た。しかしこの遍路は一生こうして諸国を遍歴《へんれき》してどこの国で果てるか分からぬというのではなかった。国《くに》には妻もあり子もあったが、信心のためにこうして他国の山中をも歩き、今日は那智を参拝して、追々帰国しようというのであるから前途はそう艱難《かんなん》ではなかった。T君は朝鮮飴一切れを出して遍路にやった。遍路はそれを押しいただき、それを食べるかと思うと、胸に懸《か》けてある袋の中に丁寧《ていねい》にしまった。

 僕などは、この遍路からたいへん勇気づけられたと謂《い》っていい、そうして遂に大雲取も越えて小口の宿に著いたのであった。実際日本は末世《まっせ》になっても、こういう種類の人間もいるのである。遍路は無論、罪を犯して逃げまわっている者などではなかった。遍路のはいている護謨底《ごむそこ》の足袋《たび》を褒《ほ》めると「どうしまして、これは草鞋《わらじ》よりか倍も草臥《くたび》れる。ただ草鞋では金が要《い》って敵《かな》いましねえから」というのであった。これは大正十四年八月七日のことである。

 一夜《いちや》明《あ》けて、僕らは小口の宿を立って小雲取の峰越をし、熊野|本宮《ほんぐう》に出ようというのである。そこでまた先達を新規に雇った。川を渡ったりしてそろそろのぼりになりかけると、細《こまか》い雨が降って来た。僕らはしばし休んで合羽《かっぱ》を身に著《つけ》はじめた。その時|遥《はるか》向うの峠を人が一人のぼって行くのが見える。やはり此方《こっち》の道は今でも通る者がいるらしいなどと話合いながら息を切らし切らし上って行った。
 三十分もかかって、ようやく一つの坂をのぼりつめるとそこで一段落がつく。そこに一人の遍路が休んでいた。さっきの雨が既にあがっているので遍路は茣蓙《ござ》を敷いてそのうえで刻煙草《きざみたばこ》を吸っていた。見晴らしが好く、雲がしきりに動いている山々も眼下になり、その間を川が流れて、そこの川原に牛のいるのなども見えている。
 僕らもそこで暫時《ざんじ》休んだ。遍路は昨日のと違って未だ若い青年である。先ほど見た一人の旅人《たびびと》はこの遍路であったのだから、遍路はかれこれ三十分も此処《ここ》に休んでいるのであった。遍路は眼が悪いということをいった。なるほど彼の眼は一|眼《がん》全く濁り、片方の瞳《ひとみ》にも雲がかかっていた。遍路の話を聴くに
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