いふ顔をありありとした。茲《ここ》に於《おい》て私等の三人と一人の青年とを加へて四人は人工説に傾いてしまつた。
 けれども、O先生はこの説を是認されなかつた。『それは、Tさんの説のやうに人工かも知れない。けれども人工であつたとしても、数百年間この事を他へ漏らさない一山《いちざん》の人々は偉いんです。やつぱり本物の鳥と思つてきくんですね。それが空海《くうかい》の徳でせう。正岡子規先生ではないが、弘法《こうぼふ》をうづめし山に風は吹けどとこしへに照す法《のり》のともしび。ですよ』かう云はれるのであつた。

 私等は雨の晴れ間を大門《だいもん》のところの丘の上に上つて、遙か向うに山が無限に重なるのを見たとき、それから其処《そこ》のところから淡路島《あはぢしま》が夢のやうになつて横《よこた》はつてゐるのを見たときには、高野山上をどうしても捨てがたかつた。または金堂《こんだう》の中にゐて轟《とどろ》く雷鳴を聞きながら、空海四十二歳の座像を見てゐたときなどは、寂しい心持になつてこの山上を愛著《あいぢやく》したのである。
 併し或堂内で、畳の上にあがつて杉戸の絵を見てゐると小坊主に咎《とが》められた。そこにあたかも西洋人夫婦を案内して来た僧がゐて仏壇の内陣の方までも見せてゐる。『あれはどうしたのだ』といふ。『あれは寄附をしたのです』と答へる。『馬鹿いへ。僕らも寄附はして居るんだぞ』と云ふ。斯《か》かる問答は如何にもまづい表出の運動であつた。けれどもこの機縁も仏法僧鳥人工説に一つの支持を与へたのである。

 私等はかういふやうな経験をして高野山をくだつた。そして和歌の浦まで来たが、もう海水浴も過ぎた頃なので旨《うま》い魚を直ぐ食はせるところも見当らず、逝春《ゆくはる》に和歌の浦にて追ひ付きたりといふ句境にも遠いので、其処に夕がたまでゐてO先生と別れ三人は那智《なち》の方に行く汽船に乗つたのであつた。

 それから丸一年が過ぎた。私等は去年やつたやうな歌の修行の集まりをば武州《ぶしう》三峰山上《みつみねさんじやう》で開いた。然《しか》るに三峰山上には仏法僧鳥がしきりに啼いた。もう日が暮れかかると啼く。月明《げつめい》の夜などには三つも四つも競つて啼いた。その声は如何にも清澄で高野山上で聴いたのよりももつともつと美しかつた。それから三峰では直ぐ頭の上で啼くので、しぼる様な肉声も明瞭《めいれう》であり、人工説などの成立つ余裕も何もなかつた。T君も私もしばらく苦笑して居らねばならなかつた。ただ私等はおもふ存分仏法僧鳥のこゑを聴き、数日してO先生が山の上にのぼつて来られたとき、T君も私もO先生のまへに降伏してしまつた。

 私の写生文はこれでしまひであるが、約《つづ》めて一言とすることが出来る。どうも高野山上の仏法僧鳥のこゑは、あれは人工ではなかつた。あれを人工だと疑ひ、それを立証しようとした学説には手落があつて、結局その学説は負けた。けれどもかういふことが云へるだらう。ああいふ夜鳥《やてう》は早晩高野山上から跡を絶つかも知れない。さうして玩具《おもちや》の仏法僧鳥をばあそこの店で売る時が来るかも知れんとかういふのである。(昭和二年十二月)



底本:「斎藤茂吉選集 第八巻」岩波書店
   1981(昭和56)年5月27日第1刷発行
初出:「時事新報」
   1928(昭和3)年1月4日、5日
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月7日作成
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