はり立ちかはり愛想をいひに女中さんが来た。
『院化《ゐんげ》はんも時たま来なはります』
かういふ言葉をそこそこにO先生をはじめ山下を出た。私等はこの日|霊宝《れいはう》館を訪ねる予定であつたが、まだ雨が止《や》まぬので此処《ここ》に一休《ひとやすみ》するつもりで来て、雨の霽《は》れるのを待たずに此処を出たのである。併し女中さんが二人で私等を霊宝館まで送つて来た。霊宝館の廊下から振返ると、二人の女中さんは前の小売店の所で何か話込んでゐるのが見えた。霊宝館では、絵だの木像だのいろいろの物を観《み》たが絵には模写もあり本物もあつた。薄暗いところで仏像などを観てゐると眠くて眠くて堪《たま》らないこともあつた。これは先刻|麦酒《ビール》を飲んだためである。
それから私等は、杉の樹立《こだち》の下の諸大名の墓所を通つて奥の院の方までまゐつた。案内の小童《せうどう》は極く無造作に大小高下の墳塋《ふんえい》をば説明して呉れた。
『左手向う木の根一本は泉州岸和田岡部|美濃守《みののかみ》』
『この右手の三本は多田満仲公です。当山石碑の立はじまり』
『左手うへの鳥居三本は出羽国米沢上杉公。その上手に見えてあるのは当山の蛇柳です』
『右手鳥居なかの一本は奥州仙台|伊達政宗《だてまさむね》公。赤いおたまやは井伊かもんの守』かういふことを幕無しに云つて除《の》けた。
『太閤《たいかふ》様が朝鮮征伐のとき、敵味方戦死者|位牌《ゐはい》の代りとして島津へうごの守よしひろ公より建てられた』といふ石碑の面《おもて》には、為高麗国在陣之間敵味方|閧死《こうし》軍兵皆令入仏道也といふ文字が彫《ほり》つけてあつた。さういふところを通りぬけ、玉川に掛つてゐる無明《むみやう》の橋を渡つて、奥の院にまゐり、先祖代々の霊のために、さかんに燃える護摩《ごま》の火に一燈を献じた。これは自身の諸|悪業《あくごふ》をたやすためでもある。それから裏の方にまはつて、夕暮に宿坊に帰つた。
その夜、奥の院に仏法僧鳥《ぶつぽふそう》の啼《な》くのを聴きに行つた。夕食を済まし、小さい提灯《ちやうちん》を借りて今日の午後に往反《わうへん》したところを辿《たど》つて行つた。この仏法僧鳥は高野山に啼く霊鳥で、運|好《よ》くば聴ける、後生《ごしやう》の好くない者は聴けぬ。それであるから、可なり長く高野《かうや》に籠《こも》つたもので
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