感謝した程であった。
 しかるにどうであろうか。一たび戦争になるや、急転直下に蚤の発生が増大し、如何ともすべからざるまでに至った。特に疎開児童の居る旅館などといったら、殆ど言語に絶するほど蚤が沢山いた。
 僕は終戦の年に山形県の生れ故郷に疎開したが、そのときも先ず夏季の蚤を恐れた。そこで、出来るだけナフタリンを集めることに努力し、部屋の蚤を出来るだけ少くしようとした。
 それでもいよいよ夏になってみると、驚くべきほど沢山の蚤がいた。僕は致方なく、古い布で袋を作ってもらい、嘗て高等学校の寄宿寮で為したようにし、一睡一醒の状態で辛うじて一夏をおくったが、蚤等は、袋の中に這入れない時には、僕の頸のところに集って来て存分血を吸うので、彼等にとってはそれで満足することが出来るのである。また一つ二つ袋の中に這入った奴を捕えようとすると電燈をつけるのが難儀だったりして、実にひどいめに逢ったのであった。
 それから蚤という奴はなかなか悧巧で、その袋を池に持って行ってはたいたりしても、なかなか旨く池の方へばかり跳ねるというわけには行かない。実に厄介な奴である。
 昭和二十一年の一月に、大石田というところに移転したが、三月はじめから肋膜炎になって臥床していると、四月にはもう蚤が出た。一つ二つに過ぎなかったものが段々ふえてくる。気がいらいらしていると、雇った看護婦が親切でよくその蚤を捕えてくれくれした。看護婦はその捕えた蚤のまだ生きているのを縫針に突きとおし、ハリツケデゴザイマスなどと言って自分のところに持って来てくれるので、枕頭でそれを見乍ら心を慰めて居るという具合であった。
 自分のまだ臥していたころ、DDTという薬のことが噂にのぼり、汽車の乗客が停車場で体ぢゅう撒かれたなどという話が伝わった。ある時看護婦が町の薬種屋から少しばかりその薬を買って来てくれた。
 それを試しに畳のうえ、布団の上などに撒いていたところが、どうも蚤が減ったような気がする。これはおもしろいとおもって、そこで県庁の衛生課に願ってもっと多くの分量をもらい、畳の白くなるほど撒布しておいたところが、いつということなく蚤が出なくなる傾向を示した。おかげ(真におかげさま)で、昭和二十一年の夏は、僕発明の蚤よけ袋の中に這入る必要もなく、病後の身を安らかに過ごすことが出来たのである。
 蚤という昆虫はいつ日本に渡来したものか
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