くばう》を紹介してくれた。それから豪雨の降るなかを駕籠で登つて宿坊へ著いた。そこに二晩|宿《とま》り、貧しい精進《しやうじん》料理を食つた。饅頭《まんぢゆう》が唯ひとつ寂し相に入つてゐる汁で飯を食べたことなどもある。而《そ》して、そこで勧められる儘《まま》に、父の追善《つゐぜん》のために廻向《ゑかう》をして貰《もら》つた。その時ふと僕は父が死んでからもう三回忌になると思つたのであつた。
本来からいへば七月に三回忌の法事をするのであるが、稲作《いなさく》の為事《しごと》が終へてから行ふことになり、八月、九月、十月と過ぎて、十月のすゑに行つた。けれども僕は東京の事情に礙《さまた》げられて列席することが出来ないので、そのことをも僕はひどく寂しくおもつた。法事終へてから家兄が父の小さい手帳を届けて呉れた。これは大正四年に西国《さいこく》に旅《たび》した時の父の日記である。
五月六日。旧三月廿三日。天気|吉《よし》。吉野町より、朝六時吉野山のぼり、午前十一時吉野駅発。高野口《かうやぐち》駅え午後一時三十分著。是《これ》より五十丁つめ三里高野山え上り、午後八時頃北室院に著。一円、吉野町宿料払。五十銭、吉野山見物|車《くるま》ちん。五十銭、同所寺に参詣費。三十銭、吉野口駅より高野口駅迄切符代。五十銭、昼飯料。二円六十銭、籠《かご》に乗賃払。七円五十銭、日ぱい料北室院に上げる。
五月七日。旧三月廿四日。晴天。朝の八時より参詣|致《いたす》。総参詣人一日へいきん二万人以上づつ有《ある》由《よし》。午後一時より高野山より下り高野口駅え午後四時に著。是より粉河《こかは》駅え著。かなも館支店宿泊。一円、参詣費。一円五十銭、北室院宿料。五十銭、荷物|負賃《おひちん》。一円、途中小使。五十銭、昼飯料。五十銭、車賃《くるまちん》。四十銭、汽車賃。
これを見ると、父は十年前に高野山にのぼり偶然にも北室院に宿泊して、宿料が一円五十銭なのに、日牌料《につぱいれう》七円五十銭も上げてゐる、これは、僕の母のために供養《くやう》して貰つたのに相違ない。母は大正二年に歿《ぼつ》したのだから、大正四年は三回忌に当る都合である。父の日記に拠《よ》ると、高野山を半日参詣して直《す》ぐその午後には下山して居る。仏法僧鳥《ぶつぽふそう》を聞かうともせず、宝物《はうもつ》も見ず、大門の砂のところからのびあがつて、奥深い幾重の山の遙《はる》か向うに淡路島《あはぢしま》の横《よこた》ふのも見ようともせず、あの大名の墓石《ぼせき》のごたごたした処を通り、奥の院に参詣して半日つぶして直ぐ下山して居る。道中自慢であつた父も、その時は既に六十四五歳になつて居り、四十歳ごろから腰が屈《まが》つて、西国《さいこく》の旅に出るあたりは板に紙を張りそれを腹に当てて歩いてゐた。さうすれば幾分腰が延びていいなどと云つてゐたのだから、高野の旅なども矢張り難儀であつたらうと僕はおもふ。そして、僕らが食べたやうな、汁の中にしよんぼりと入つた饅頭《まんぢゆう》を父も食べたのだらうとおもふと、何だか不思議な心持にもなるのであつた。これを「念珠集」の跋《ばつ》とする。(大正十五年二月記)
底本:「斎藤茂吉選集 第八巻」岩波書店
1981(昭和56)年5月27日第1刷発行
初出:「改造」
1925(大正14)年11月、1926(大正15)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月7日作成
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