ら、明治二十|丁亥《ひのとゐ》年六月二日。晴天。夜おいく安産。と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は懐妊《くわいにん》したのではないかと僕は今おもふのである。

    9 奇蹟。日記鈔

 不思議奇蹟などいふことは中江兆民には無かつた。それは開化を輸入するには物質窮理の学を先づ輸入せねばならぬから、兆民は当時『理学』と謂《い》つてゐる哲学をも輸入したが、いきほひ『奇蹟』を対治《たいぢ》する立場にあつた。けれども僕のやうな気の弱いものには、『奇蹟』は幾つもある。
 大正十三年の暮に火事があつて、僕の書籍なんどもあんなに焼け果ててしまつたのに、僕が郷里から持つて来て、新聞紙に一包にしてゐた祖父と父の覚帳《おぼえちやう》が煙にこげたまま焼けずにゐた。びしよぬれになつてゐた日本紙で綴《つづ》つた帳面を一枚一枚火鉢の火で乾かしながら、僕は実に強い不思議を感じてゐた。僕の甥《をひ》は、紙を乾かすのを手伝ひながら、『軽いものですから、二階の焼落ちるときに跳ね飛ばされたんでせう』などと云つた。また『被服廠《ひふくしやう》の時のやうにつむじ風が起つて吹き飛ばしたのかも知れませんね』『併《しか》しあんなぺらぺらな紙の帳面ですから、直ぐ焼けてもいい筈《はず》ですがね』などとも云つた。甥はなるべく物理学の理屈で説明をつけようとするのであるがそれでは分からない点が幾らもあつた。
 祖父のものは、俳諧《はいかい》連歌《れんが》か何かを記入したものであつたが、父のものには、『品々万書留帳《しなじなよろづかきとめちやう》』といふ、明治七|甲戌《きのえいぬ》年二月吉日に拵《こしら》へたものである。これは長兄が生れたとき、祝《いはひ》に貰《もら》つた品々などの記入から始まり、法事の時の献立《こんだて》、病気見舞の品々、婚礼のときの献立など、こまごまと記《しる》してあるので、僕は珍しいと思つて貰ひ受けたのであつた。例へば、明治廿三年二月廿三日夜より廿四日。盛華院清阿妙浄善大姉三回忌仏事献立控の廿四日十二人|前《まへ》の条《くだり》に、平(かんぴよう。いも。油あげ。こんにやく。むきたけ)。手しほ皿(奈良漬。なんばん)。ひたし(韮《にら》)。皿(糸こん。くるみ合)。巻ずし(黒のり、ゆば)。吸物(包ゆば二つ。しひたけ。うど)。あげ物(牛蒡《ごばう》。いも。かやのみ。くわい。柿)。煮
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