その女形《をんながた》になつたり、堀田《ほつた》の陣屋があつた時に、農兵になつて砲術を習つたり、おいとこ。しよがいな。三さがり。おばこ。木挽《こびき》ぶし。何でもうたふし、祖父以来進歩党時代からの国会議員に力※[#「やまいだれ+(「堊」の「王」に代えて「田」)」、124−下−1]《ちからこぶ》いれて、※[#「宀/隆」、第4水準2−8−9]応《りゆうおう》和尚から草稿をかいてもらつて政談演説をしたり、剣術に凝り、植木に凝り、和讃に凝り、念仏に凝り、また穀断《ごくだち》、塩断《しほだち》などをもした。
 僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひの尠《すくな》いものが、たまたま父の一生をおもひ起すと、そこにはあまり似寄《により》の無いことに気付くのであつたが、けれども是《これ》は自ら斯《か》う思ふといい。僕は父が痰《たん》を煩つたときの子である。生薑《しやうが》の砂糖漬などを舐《ねぶ》つてゐたときの子である。さういふ時に生れた子である。ただ、どちらにしても馬胎《ばたい》を出《い》でて驢胎《ろたい》に生じたぐらゐに過ぎぬとは僕もおもふ。

    8 青根温泉

 父は五つになる僕を背負ひ、母は入用《いりよう》の荷物を負うて、青根《あをね》温泉に湯治《たうぢ》に行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その麓《ふもと》を縫うて迂回《うくわい》して行くことも出来る。
 父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯に行《ゆく》。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気|吉《よし》。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯|返《がへ》り。八月廿三日。天気吉。伝右衛門《でんゑもん》、おひで、広吉、赤湯《あかゆ》入湯に行。九月|朔《ついたち》。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記は概《おほむ》ね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めて幽《かす》かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
 父は小田原|提灯《ちやうちん》か何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行
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