の若葉が、風に裏がへるころになれば、そこに山蚕《やまこ》が生れて、道の上に黒く小さい糞《ふん》を沢山おとすのであつた。
 五六人総勢十人ぐらゐの子供等が、さういふ日に恣《ほしいまま》に道草を食つて毎日おなじ道を往反《わうへん》する。蟻《あり》の穴に小便をしたり、蛇を殺してその口中《こうちゆう》に蛙《かへる》を無理におし込んだり、さういふ悪戯《いたづら》をしながら、時間が迫つてくると皆学校まで駈出して行つた。
 然《しか》るにそれらの子供を威圧してゐる童子がひとりゐた。年はそのころ十一ぐらゐであつた。年かさも大きいし猛烈なところがあつて、村の学校の子供等を征服してゐた。周囲の子供等を引率して学校の授業も何もかまはずに山や沢に出掛けるので、そのやり方が何処《どこ》か猛烈なところがあつた。一度教員は忿怒《ふんど》して学校の梁木《はりき》にその童子をつるして折檻《せつかん》したことがある。それは森文部大臣が東北の学校を視察して、山形から上山に行くために早坂新道を通られるといふ日であつた。僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その稽古《けいこ》をし、滅多に穿《は》くことのない袴《はかま》を穿き、中にはこれも滅多には著《き》ぬ襯衣《しやつ》を著たりなどして学校に行つたのであつたが、童子は何時《いつ》の間にかさういふ子供等を引率して山に遊びに行つてしまつた。それであるから、文部大臣を敬礼する時がだんだん近づいてくるのに子供等が帰つて来ないといふのであつた。併し文部大臣の敬礼がどうにか間に合つて、僕等は早坂新道に整列し、人力車で通つた文部大臣森有礼に小さいかうべをさげた。教員はその日は平穏な風をしてゐた。が、次の日にその童子を学校の梁木に吊《つる》して、鞭《むち》で続けざまに打つてみんなに見せたのであつた。それから間もなく森文部大臣が殺されたのだといふやうな気がする。さういふことは総《すべ》てまだ学校の合併されない前のことである。学校が合併されてからは、その童子もやはり学校に通つて、おのづから周囲の子供どもを威圧してゐた。
 美しく晴れた朝、その童子は僕らを合せた七八人の中心になり、思ふ存分道ぐさを食ひながら学校へ出掛けて行つた。硫黄泉を源とする酢川《すかは》の橋から石を投げたりなんぞして、しばらく歩くと、道端に五六本の漆《うるし》の木がある。これは秋には真赤《まつか》に紅葉した
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