最後の言葉であつたのであらう、といふことであつた。
 それからかういふことも話して呉れた。廿三日、僕等友人が皆辞して帰つた日である。その日の夕食後、長女初瀬さんが、『今夜はお父さんはえらい楽《らく》のやうだね』と云つたさうである。さうすると赤彦君は、『大敵《たいてき》退散した』と云つて笑つたさうである。『大敵』といふのは、赤彦君が静かに静かに籠《こも》つてゐたかつた病牀《びやうしやう》に、どやどやとつめかけた平福・岩波・中村・土屋・僕その他の友人、門人を謂《い》つたのであつた。さうして赤彦君はつづいて、『来る人も遠いところを容易ではないよ。感謝しなければならないよ。斎藤はおれの体を気にして来て呉れたし』と云つたさうである。その言葉は遅く、切れ切れで、幽かなのである。一語いふにも骨が折れるのである。
 炬燵に俯伏して頭のところに手を組んでうつらうつらしてゐた赤彦君は、その夜の十時過ぎに居合せた家族、親戚《しんせき》の皆を枕頭に呼んで、『今晩おれはまゐるかも知れない』と云つたさうである。併《しか》し暫くすると、枕頭でみんなに茶を飲ませ、『これで解散だ』といつたさうである。それが廿三日夜のことであるから、廿四日なか一日置いて、廿五日には意識がすでに濁りかけたのであつた。
 廿六日は午《ひる》になり午後になり、赤彦君の状態は刻々に変つて行つた。主治医は、三時間おきに強心の薬を注射した。次男|周介《しうすけ》君は、いま入学試験に行つて居り、けふの正午までに体格検査が済む筈《はず》である。そして直ぐ汽車に乗れば今夜の三時に上諏訪駅に著く筈である。それまで赤彦君の息を断たせまいといふ主治医の念願であつた。そこで夕刻、リンゲル氏液五百|瓦《グラム》をも右側|大腿《だいたい》の内側に注入した。それから、息のあるうち写真も撮りたい。それから藤沢古実君が土を用意して来て居り、息のあるうち恩師の顔を塑《かた》にとりたいといふので、夫人不二子さんの許《ゆるし》を得て、写真も撮り、面塑も出来た。そして廿六日は暮れた。
 夕食後、九時になり、十時になり、十一時になつたころ、息も脈も細り体が冷えかけた。そのうち夜半を過ぎたので一まづ皆が枕頭を去つて休むことにした。主治医の伴さんと僕と交る交る容態をまもつてゐたが、ふたりも少し休むことにした。午前二時に上諏訪駅まで周介君のむかひに行くやうに人を頼み、それから脈搏、呼吸の方を初瀬さんに看《み》てもらふやうに頼み、僕もそのまま布団をかぶつてしまつた。さて小《こ》一時間も経つたかとおもふころ、しきりに赤彦君を呼ぶこゑがする。それは不二子さんのこゑである。それから初瀬さんのこゑである。それから周介君のこゑである。しかし、赤彦君は一言もそれに返辞をしない。呼ぶこゑは幾たびか続いて、それに歔欷《すすりなき》のこゑが加はつた。僕は夢現《ゆめうつつ》の間にそれを聞いてゐるのであるから、何か遠い世界の出来事のやうに思へる。痛切に感じてゐるやうで、実は痛切に感じてゐない。けれども暫くそれを聞いてゐるうちに、僕は反射的に身を起して布団から顔を出した。これは何かの会釈でもするつもりであつたらしい。然るに僕が顔をあらはした時にはみんなの言葉が既に絶えてもとの静寂に帰つてゐる。僕は急劇に明るい電燈の光を目に受けたので、一語も発せずに二たび布団をかぶつてしまつた。布団をかぶつてしまふと意識がだんだん晴れて来るのをおぼえた。そして先程の赤彦君を呼ぶこゑのことが写象となつて意識にのぼつて来た。気丈な不二子さんは僕等のまへにつひぞ今まで涙を見せたことはなかつた。これは侍《さむらひ》の女房の覚悟に等しい心の抑制があつたからであらう。然るに今は他人の尽《ことごと》くが眠に沈んでゐる。赤彦君の枕頭に目ざめてゐるものは皆血縁の者である。そして終焉《しゆうえん》に近い赤彦君を呼ぶこゑが幾つ続いても、赤彦君はつひに一語もそれに答ふることをしない。血縁の者はいま邪魔なく、障礙《しやうがい》なくして慟哭《どうこく》し得るのである。僕は布団をかぶりながら両眼に涙の湧《わ》くのをおぼえてゐた。間もなく※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]鳴《けいめい》がきこえ、暁が近づいたらしい。その頃から僕は二たび少しく眠つた。

     七

 廿七日の午前六時半ごろ、主治医と二人で診察すると、脈搏はもはや弱く不正で結代《けつたい》があつた。息も終焉《しゆうえん》に近いことを示してゐた。そこで主治医の注意によりみんなが枕頭に集つた。赤彦君は稀《まれ》に歯ぎしりをし、唸《うな》つた。その唸《うなり》が十ばかり続くと、息が段々幽かになつて行つた。そして消えるやうになるかとおもふと、また唸がつづいた。それがまた十ばかりつづいてまた息が幽かになつた。そのうち八時になつたので、みんなが暫く休んで朝食をした。その間に赤彦君を看護《みまも》つてゐたが、平安な顔貌に幾らか苦しみの表情が出て来た。それを僕が凝視してゐると、幾ばくもなくその表情が取れて行つて、もとの平安な顔になつた。ときどき唸があつて、それが矢張り十ばかり続いた。九時に脈搏が触れなくなつたので、居合《ゐあは》せた人々が尽《ことごと》く枕頭に集つた。
 厳父、夫人の不二子さん、健次さん、周介さん、夏樹さん、初瀬さん、水脈《みを》さん、妹の田鶴《たづ》さん、弟の葦穂さん、その他の血族。長野から来られた守屋喜七さん。諏訪の田中一造、五味繁作、森山汀川、両角《もろずみ》喜重、丸山東一、藤森省吾、両角丑助、堀内皆作の諸君。東京から来た金原省吾、白水吉次郎、鹿児島寿蔵の諸君。京都から来た宇野喜代之介、竹尾忠吉の諸君。それに上に記した岡麓、岩波茂雄、橋本福松、藤沢古実、高木今衛、馬場謙一郎、今井邦子、築地藤子、阪田幸代等の諸君。僕が姓名を知らずにしまつて、また問合せるのに時の無い約十名。あはせて約四十名が枕頭に集つた。北海道の令弟塚原|瑞穂《みづほ》さん、それから小原節三、平福百穂、森田恒友、中村憲吉の諸君はいまだ途中にあつた。
 赤彦君の安らかな顔貌は一瞬何か笑ふに似た表情を口脣《こうしん》のところにあらはしたが、また元の顔貌に帰つた。その時不二子さん以下の血縁者はかはるがはる立つて赤彦君の口脣を霑《うるほ》した。それから主治医伴さんの静粛な診査があり、赤彦君の息は全く絶えた。時に、大正十五年三月廿七日午前九時四十五分である。
 続いて朋友《ほういう》、門人の銘々が赤彦君の脣《くらびる》を霑した。その時僕等は、病弱のゆゑに、師の臨終に参ずることの出来ない土田耕平《つちだかうへい》君をおもはざることを得なかつた。けふは天が好く晴れて、雪がどんどん解けはじめてゐる。友島木赤彦君はつひに歿した。痩せて黄色になつた顔には、もとの面影がもはや無いと謂《い》つても、白きを交へて疎《まば》らに延びた鬚髯《しゆぜん》のあたりを見てゐると、※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の村人《むらびと》時代の顔容をおもひ起させるものがあつた。



底本:「斎藤茂吉選集 第八巻」岩波書店
   1981(昭和56)年5月27日第1刷発行
初出:「改造」
   1926(大正15)年5月
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月7日作成
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