いろ話してくれたまへ』と云つた。それでも種々|歌柄《うたがら》についての短評などをも云つた。気になると見えて発行所のことなどをも云つた。それから、『おれも生きられるものなら生きたいのだが』といふ幽かなこゑも聞えた。その間に僕等に茶を饗《きやう》することを命じたり、ぼんたん[#「ぼんたん」に傍点]を持つて来て食はせることを命じたり、いろいろ細かいところに気が付いてゐた。そして僕等は諏訪湖からとれる寒鮒《かんぶな》の煮たのを馳走《ちそう》になり、酒をも飲んだ。これは一々赤彦君の差図によつたのであつた。僕等は病床の邪魔をしたことを謝しながら、それでも二回まで会つた。その時赤彦君は『何だかこれではあつけないやうだな』と云つた。僕等は、明日二たび邪魔するだらうことを告げて※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]蔭山房を辞した。
その晩、急に気のゆるんだやうにおぼえて、みんなは布半《ぬのはん》旅館で馬肉を食ひ、坐り相撲を取り、将棋などを差した。百穂画伯は赤彦君の病顔《びやうがん》の写生図を作つた。夜更けて温泉に浴し、静かに眠らうとしたが、心が落付いて来ると赤彦君の顔容が眼前に髣髴《はうふつ》としてあらはれて来た。諏訪の諸君も、それから中村憲吉君も、数日来の張りつめた心に幾分の緩みを得て、そして酒に酔うたのであつた。森山|汀川《ていせん》君は今夜向うにつめてゐる。藤沢君は夜更けてから向うに宿《とま》りに行つた。
四
三月二十三日午前、皆して二たび※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]蔭《しいん》山房に行つた。ゆうべ、百穂画伯の『丹鶴青瀾図《たんかくせいらんづ》』の写真を赤彦君が見たときのことを森山汀川君が話して呉れた。赤彦君は努力して両手を張つてそれを見た。そして、『これはたいしたものらしい』と云つた。それから、『どうも写生に徹したものだ』とも云つたさうである。そこで、けふも赤彦君の枕頭《ちんとう》でその絵の話などをし、時に諧謔《かいぎやく》談笑した。午餐《ごさん》には諏訪湖の鯉《こひ》と蜆《しじみ》とを馳走になつた。これは、『どうも何もなくていけないが、鯉と蜆でも食べて行つてくれたまへ』といふ赤彦君の心尽《こころづく》しであつた。静かに籠《こも》つてゐたい赤彦君の病牀《びやうしやう》を邪魔したのさへ心苦しい。然《しか》るに赤彦君は苦しいうちにかういふ心尽しをされるのであつた。僕等は忝《かたじけな》く馳走になつた。
午後三時に伴さんが見えて、注射を二とほりされた。僕もそのとき同坐した。注射の一つは強心の方の薬で、一つは神経痛のための薬であつた。この注射は赤彦君から進んで所望されるので、今朝から催促されてゐたものである。それから一時間ばかり経つて僕等は二たび病牀を見舞つた。その時には赤彦君は珍らしく機嫌|好《よ》くていろいろの話をした。これは強心の方の薬にコフエンが入つてゐるので、それが神経に働いたためであらうか。角館《かくのだて》中学校の校歌の話になつたとき、『つまり茶話《ちやわ》会などの時に歌ふのもあつていいですね。何とか謂《い》つた。佐竹義敦《さたけよしあつ》、小田野直武《をだのなほたけ》は日本洋画の紅《こう》二点、といつた調子ですね。デカンシヨ式でも好し。男《をとこ》美術に女《をんな》の美術、美術美術で苦労する、と云つた調子ですね』『天《てん》にそびゆる秋田の杉も巌《いは》を貫く根元《ねもと》から。それから、行つて見たかや田沢《たざは》の湖《うみ》へ、そこの浮木《うきぎ》の下のみづ。かういふのは幾らでも出ます。校歌の方は一遍|妻《さい》に書かせてみます』こんなことを赤彦君は俯伏《うつぶ》しながら云つたので、皆が愁眉《しうび》を開いて喜んだのであつた。けれども赤彦君は、このごろ眠りと醒覚《せいかく》との界《さかひ》で時々錯覚することがあつた。ゆうべあたりも、『おれの膝《ひざ》に今誰か乗つてゐなかつたか』などと問うたさうであつた。
そこで、赤彦君は皆《みんな》に茶を饗することを命じた。その間に赤彦君は冷水を音させながら飲干《のみほ》して、『実に旨《うま》い。これが一等です』などとも云つた。僕は、この分ならば赤彦君の寿命は三月一ぱいは保つであらう。そして短歌の方の製作も幾つか出来るだらうと思つて、秘《ひそ》かに喜んだのであつた。そして、四月の四日過ぎには少し暇になるであらうから、その時また出直して来て邪魔するなどとも云つた。けれども僕の眼識は欲目のために鈍つてゐて、赤彦君は三月尽《さんぐわつじん》を待たずに歿《ぼつ》し、短歌の製作も『犬の歌』以後は絶えたのであつた。
僕等は赤彦君のまへに偽《いつはり》を言ひ、心に暗愁の蟠《わだかま》りを持つて※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]蔭《しいん》山房を辞した。旅舎《やど》に著いて、夕餐《ゆふさん》を食し、そして一先づ銘々|帰家《きか》することに極《き》めた。それまで湯に入るものは湯に入り、将棋を差すものは将棋を差した。心が妙に興奮してゐて、思はぬ所ではしやいだりしたのであつた。
五
その夜十一時幾分かの上諏訪《かみすは》発の汽車で、中村憲吉君は摂津に向ひ、僕等は東京に立つた。平福百穂、岩波茂雄、土屋文明、高田浪吉の諸君同道である。
朝六時頃新宿駅に著くと、家根瓦《やねがはら》の上に霜が真白《ましろ》に置いてゐた。今ごろなんだつてこんなにきびしい霜だらう。さうおもひながら僕は家に著いた。家には父母も妻も誰もゐなかつた。これはゆうべ妹の死報に接して、その方につめかけてゐたのであつた。妹は、ゆうべ僕らが上諏訪を立つて少し来たころに歿したのである。僕は実に混乱せんとする心を無理におししづめて暫《しばら》く眠つた。それから外来診察をし、溜《た》まつてゐる手紙端書を少し書いた。そこへ、今井|邦子《くにこ》さんから電話がかかつて、どうしても一度、島木先生にお目にかかりたいといふことであつた。僕は直ぐそのことを否定した。今井さんは涙を流してゐる風であつた。兎《と》も角今夜アララギ発行所に来てもらひたい旨をいつて電話を切つた。
午後に僕は妹を弔ひに行つた。妹は安らかな顔をして死んでゐた。妹が生んだ大きい方の女の子は珍らしい客が来るので切《しき》りにはしやいでゐるのも、ひどく僕を感動せしめた。夕刻に妹の家を辞して、途中で蕎麦《そば》を食ひ、その足でアララギ発行所に行つた。
発行所で今夜は、同人《どうにん》の重立《おもだ》つた人々に来て貰《もら》つて、今日まで秘《ひ》して居つた島木赤彦君の病気の経過を報告しようとしたのであつた。席には土屋文明君、橋本福松君もすでに見えてゐた。僕は同人の重だつた人々に赤彦君の疾病《しつぺい》の経過の大体を話し、一月廿一日に伴《ばん》さんから胃癌の宣告を受けたこと。二月二日に胃腸病院の神保孝太郎《じんぼかうたらう》博士の診察を受けたこと。次いで佐藤|三吉《さんきち》博士の診察を受けたこと。今はすでに重篤の状態にあることをも云つた。そして、赤彦門下の三人の女流は岡|麓《ふもと》さんと一しよに明日|信濃《しなの》に立つこと。そのほかの諸君は病気の邪魔になるから行かぬことを約したのであつた。同人のうちにはこらへ切れない程赤彦君に会ひたい者もゐたが、僕は、赤彦君の寿命は三月一ぱいは保つやうに思はれたので、強ひてさう約束してもらつたのであつた。僕はなほその席で、これまで口を緘《かん》して赤彦君の病気を通知しなかつた訣《わけ》をも話した。『実は発行所に起臥《きぐわ》してゐる高田浪吉君にも知らせなかつたのだから』といふやうなことも其時|附加《つけくは》へたのであつた。夜ふけてから僕は家に帰つた。
翌廿五日|午《ひる》過ぎの新宿発の汽車で、岡麓さんは今井邦子さん、築地藤子《つきぢふぢこ》さん、阪田幸代《さかたさちよ》さんの三人を連れて信濃に立つた。午後に僕はアララギ発行所に行き、赤彦君と親交のあつた二三の方々に赤彦君の病のすでに篤《あつ》きことを告げた。なほ数人の方々に手紙を書かうとしてゐるところに、発行所|宛《あて》に赤彦君危篤の電報が届いた。僕は手紙を書くことをやめて家に帰つた。家にもやはり電報が届いてゐた。その夕すぐさま岩波茂雄さんは信濃へ立つた。夕食後、アララギ発行所に行くと土屋文明君はじめ七八人の同人が集まつてゐた。留守居万事を土屋文明君、高田浪吉君に頼み、十時幾分かの汽車で新宿駅を立つた。橋本福松、高木今衛、馬場謙一郎の三君同道した。夜が更けても目が冴《さ》えてなかなか眠れない。甲府駅で弁当を買つて食つた。
『おや。雪だ雪だ』暫くして汽車が信濃に入つたとおもふころ、かうひとりが云つた。
『成程たいへんな雪だ。いつこんなに降つたかな。ゆうべあたりかも知れんな』かうまた一人が云つた。二日まへ此処《ここ》を通つた時には雪はすつかり消えてゐたからであつた。
『おや。まだ降つてゐますよ。吹雪ですよ』『なるほど、こいつはひどい。かうして見ると信州の気候はやつぱり鋭いんだね』こんなことをも云ひ合つた。島木赤彦君の息は既に絶えてゐるだらうとも思ひながら、こんな会話をするのであつた。暁天に近い信濃の国は一めんの雪で蔽《おほ》はれ、それを烈風が時々通過ぎて、吹雪の渦を起させてゐるのであつた。
六
三月二十六日午前五時四十分に、四人は急いで上諏訪の停車場で降りた。町の家々は、未だひつそりとして居る。雪のさかんに降るなかを四人は布半《ぬのはん》旅館にたどりついて、戸を破れる程たたいた。
布半には東京から来た人々はもう誰も宿《とま》つてゐなかつた。赤彦君はもう駄目に相違ないといふ予感が強く僕の心を打つたが、女中は、守屋喜七《もりやきしち》さんの宿つてゐられることを告げたので、四人は守屋さんの部屋になだれるやうにして入り込んだ。守屋さんは、赤彦君の息のまだ絶えないでゐることを語られた。赤彦君の親しい友である守屋さんは病をおして長野から来てゐたのである。
四人は女中をせきたてて、人力車《じんりきしや》を雇つてもらつた。雪の降るなかを人力車は走るけれども、それがもどかしい程遅い。高木村の入口で人力車から降りて坂をのぼつて行つた。息を切らし切らし家に著いた時には、もう雪は小降りになつてゐた。入口から直ぐの部屋には昨夜来赤彦君の枕頭《ちんとう》をまもつた人々の一部が疲れて眠つてゐる。森山|汀川《ていせん》君は直ぐ僕たちを赤彦君の病室に導いた。
赤彦君は今は仰臥《ぎやうぐわ》してゐる。さうして、純黄色になつた顔面から、二日前に見たときのやうな縦横無数の皺が全く取れて、そのために沈痛の顔貌《がんばう》は極く平安な顔貌に変つてゐる。そして平安な息を続けてゐるけれども、意識はすでに清明ではなかつた。時々眼を半眼に開き、瞳《ひとみ》はもはや大きくなつてゐた。
主治医の伴さんは、きのふ以来帰宅せずに全く赤彦君の枕頭を護《まも》られたのであつた。伴さんはかういふことを語られた。赤彦君はきのふ迄《まで》は、いつもどほり神経痛のための注射を要求されたさうである。『今日もやはり注射をしませうか』と問うたとき、『もちろん』と答へたが、それが非常に幽《かす》かなこゑであつたさうである。今までは神経痛のために仰臥することが出来ずに、おほむね炬燵《こたつ》に俯伏《うつぶし》になつてゐたのが、昨夜以来は全く仰臥の位置の儘《まま》だといふことである。きのふ以来、急に脈搏《みやくはく》が悪くなるので、虚脱の来るのを恐れたといふことである。さういふことを伴さんは語られた。昨夜十二時過ぎに状態が悪くなつて、みんなが枕頭につめかけたのであつたが、それが少しく持直して今日に及んだのであつた。
藤沢古実君はかういふことを話して呉れた。きのふ、岡麓さん、今井邦子さん、築地藤子さん、阪田幸代さんの見えられたとき、『先生。岡先生がおいでになりました』といふと、赤彦君は辛うじてかうべを起して、銘々に点頭《うなづ》いたさうである。そして『ありがたう』といつたが、それが恐らく
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