人のうちにはこらへ切れない程赤彦君に会ひたい者もゐたが、僕は、赤彦君の寿命は三月一ぱいは保つやうに思はれたので、強ひてさう約束してもらつたのであつた。僕はなほその席で、これまで口を緘《かん》して赤彦君の病気を通知しなかつた訣《わけ》をも話した。『実は発行所に起臥《きぐわ》してゐる高田浪吉君にも知らせなかつたのだから』といふやうなことも其時|附加《つけくは》へたのであつた。夜ふけてから僕は家に帰つた。
 翌廿五日|午《ひる》過ぎの新宿発の汽車で、岡麓さんは今井邦子さん、築地藤子《つきぢふぢこ》さん、阪田幸代《さかたさちよ》さんの三人を連れて信濃に立つた。午後に僕はアララギ発行所に行き、赤彦君と親交のあつた二三の方々に赤彦君の病のすでに篤《あつ》きことを告げた。なほ数人の方々に手紙を書かうとしてゐるところに、発行所|宛《あて》に赤彦君危篤の電報が届いた。僕は手紙を書くことをやめて家に帰つた。家にもやはり電報が届いてゐた。その夕すぐさま岩波茂雄さんは信濃へ立つた。夕食後、アララギ発行所に行くと土屋文明君はじめ七八人の同人が集まつてゐた。留守居万事を土屋文明君、高田浪吉君に頼み、十時幾分かの汽車で新宿駅を立つた。橋本福松、高木今衛、馬場謙一郎の三君同道した。夜が更けても目が冴《さ》えてなかなか眠れない。甲府駅で弁当を買つて食つた。
『おや。雪だ雪だ』暫くして汽車が信濃に入つたとおもふころ、かうひとりが云つた。
『成程たいへんな雪だ。いつこんなに降つたかな。ゆうべあたりかも知れんな』かうまた一人が云つた。二日まへ此処《ここ》を通つた時には雪はすつかり消えてゐたからであつた。
『おや。まだ降つてゐますよ。吹雪ですよ』『なるほど、こいつはひどい。かうして見ると信州の気候はやつぱり鋭いんだね』こんなことをも云ひ合つた。島木赤彦君の息は既に絶えてゐるだらうとも思ひながら、こんな会話をするのであつた。暁天に近い信濃の国は一めんの雪で蔽《おほ》はれ、それを烈風が時々通過ぎて、吹雪の渦を起させてゐるのであつた。

     六

 三月二十六日午前五時四十分に、四人は急いで上諏訪の停車場で降りた。町の家々は、未だひつそりとして居る。雪のさかんに降るなかを四人は布半《ぬのはん》旅館にたどりついて、戸を破れる程たたいた。
 布半には東京から来た人々はもう誰も宿《とま》つてゐなかつた。赤彦君はもう駄目に相違ないといふ予感が強く僕の心を打つたが、女中は、守屋喜七《もりやきしち》さんの宿つてゐられることを告げたので、四人は守屋さんの部屋になだれるやうにして入り込んだ。守屋さんは、赤彦君の息のまだ絶えないでゐることを語られた。赤彦君の親しい友である守屋さんは病をおして長野から来てゐたのである。
 四人は女中をせきたてて、人力車《じんりきしや》を雇つてもらつた。雪の降るなかを人力車は走るけれども、それがもどかしい程遅い。高木村の入口で人力車から降りて坂をのぼつて行つた。息を切らし切らし家に著いた時には、もう雪は小降りになつてゐた。入口から直ぐの部屋には昨夜来赤彦君の枕頭《ちんとう》をまもつた人々の一部が疲れて眠つてゐる。森山|汀川《ていせん》君は直ぐ僕たちを赤彦君の病室に導いた。
 赤彦君は今は仰臥《ぎやうぐわ》してゐる。さうして、純黄色になつた顔面から、二日前に見たときのやうな縦横無数の皺が全く取れて、そのために沈痛の顔貌《がんばう》は極く平安な顔貌に変つてゐる。そして平安な息を続けてゐるけれども、意識はすでに清明ではなかつた。時々眼を半眼に開き、瞳《ひとみ》はもはや大きくなつてゐた。
 主治医の伴さんは、きのふ以来帰宅せずに全く赤彦君の枕頭を護《まも》られたのであつた。伴さんはかういふことを語られた。赤彦君はきのふ迄《まで》は、いつもどほり神経痛のための注射を要求されたさうである。『今日もやはり注射をしませうか』と問うたとき、『もちろん』と答へたが、それが非常に幽《かす》かなこゑであつたさうである。今までは神経痛のために仰臥することが出来ずに、おほむね炬燵《こたつ》に俯伏《うつぶし》になつてゐたのが、昨夜以来は全く仰臥の位置の儘《まま》だといふことである。きのふ以来、急に脈搏《みやくはく》が悪くなるので、虚脱の来るのを恐れたといふことである。さういふことを伴さんは語られた。昨夜十二時過ぎに状態が悪くなつて、みんなが枕頭につめかけたのであつたが、それが少しく持直して今日に及んだのであつた。
 藤沢古実君はかういふことを話して呉れた。きのふ、岡麓さん、今井邦子さん、築地藤子さん、阪田幸代さんの見えられたとき、『先生。岡先生がおいでになりました』といふと、赤彦君は辛うじてかうべを起して、銘々に点頭《うなづ》いたさうである。そして『ありがたう』といつたが、それが恐らく
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