心尽しをされるのであつた。僕等は忝《かたじけな》く馳走になつた。
 午後三時に伴さんが見えて、注射を二とほりされた。僕もそのとき同坐した。注射の一つは強心の方の薬で、一つは神経痛のための薬であつた。この注射は赤彦君から進んで所望されるので、今朝から催促されてゐたものである。それから一時間ばかり経つて僕等は二たび病牀を見舞つた。その時には赤彦君は珍らしく機嫌|好《よ》くていろいろの話をした。これは強心の方の薬にコフエンが入つてゐるので、それが神経に働いたためであらうか。角館《かくのだて》中学校の校歌の話になつたとき、『つまり茶話《ちやわ》会などの時に歌ふのもあつていいですね。何とか謂《い》つた。佐竹義敦《さたけよしあつ》、小田野直武《をだのなほたけ》は日本洋画の紅《こう》二点、といつた調子ですね。デカンシヨ式でも好し。男《をとこ》美術に女《をんな》の美術、美術美術で苦労する、と云つた調子ですね』『天《てん》にそびゆる秋田の杉も巌《いは》を貫く根元《ねもと》から。それから、行つて見たかや田沢《たざは》の湖《うみ》へ、そこの浮木《うきぎ》の下のみづ。かういふのは幾らでも出ます。校歌の方は一遍|妻《さい》に書かせてみます』こんなことを赤彦君は俯伏《うつぶ》しながら云つたので、皆が愁眉《しうび》を開いて喜んだのであつた。けれども赤彦君は、このごろ眠りと醒覚《せいかく》との界《さかひ》で時々錯覚することがあつた。ゆうべあたりも、『おれの膝《ひざ》に今誰か乗つてゐなかつたか』などと問うたさうであつた。
 そこで、赤彦君は皆《みんな》に茶を饗することを命じた。その間に赤彦君は冷水を音させながら飲干《のみほ》して、『実に旨《うま》い。これが一等です』などとも云つた。僕は、この分ならば赤彦君の寿命は三月一ぱいは保つであらう。そして短歌の方の製作も幾つか出来るだらうと思つて、秘《ひそ》かに喜んだのであつた。そして、四月の四日過ぎには少し暇になるであらうから、その時また出直して来て邪魔するなどとも云つた。けれども僕の眼識は欲目のために鈍つてゐて、赤彦君は三月尽《さんぐわつじん》を待たずに歿《ぼつ》し、短歌の製作も『犬の歌』以後は絶えたのであつた。
 僕等は赤彦君のまへに偽《いつはり》を言ひ、心に暗愁の蟠《わだかま》りを持つて※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]蔭《しいん》山房を辞した。旅舎《やど》に著いて、夕餐《ゆふさん》を食し、そして一先づ銘々|帰家《きか》することに極《き》めた。それまで湯に入るものは湯に入り、将棋を差すものは将棋を差した。心が妙に興奮してゐて、思はぬ所ではしやいだりしたのであつた。

     五

 その夜十一時幾分かの上諏訪《かみすは》発の汽車で、中村憲吉君は摂津に向ひ、僕等は東京に立つた。平福百穂、岩波茂雄、土屋文明、高田浪吉の諸君同道である。
 朝六時頃新宿駅に著くと、家根瓦《やねがはら》の上に霜が真白《ましろ》に置いてゐた。今ごろなんだつてこんなにきびしい霜だらう。さうおもひながら僕は家に著いた。家には父母も妻も誰もゐなかつた。これはゆうべ妹の死報に接して、その方につめかけてゐたのであつた。妹は、ゆうべ僕らが上諏訪を立つて少し来たころに歿したのである。僕は実に混乱せんとする心を無理におししづめて暫《しばら》く眠つた。それから外来診察をし、溜《た》まつてゐる手紙端書を少し書いた。そこへ、今井|邦子《くにこ》さんから電話がかかつて、どうしても一度、島木先生にお目にかかりたいといふことであつた。僕は直ぐそのことを否定した。今井さんは涙を流してゐる風であつた。兎《と》も角今夜アララギ発行所に来てもらひたい旨をいつて電話を切つた。
 午後に僕は妹を弔ひに行つた。妹は安らかな顔をして死んでゐた。妹が生んだ大きい方の女の子は珍らしい客が来るので切《しき》りにはしやいでゐるのも、ひどく僕を感動せしめた。夕刻に妹の家を辞して、途中で蕎麦《そば》を食ひ、その足でアララギ発行所に行つた。
 発行所で今夜は、同人《どうにん》の重立《おもだ》つた人々に来て貰《もら》つて、今日まで秘《ひ》して居つた島木赤彦君の病気の経過を報告しようとしたのであつた。席には土屋文明君、橋本福松君もすでに見えてゐた。僕は同人の重だつた人々に赤彦君の疾病《しつぺい》の経過の大体を話し、一月廿一日に伴《ばん》さんから胃癌の宣告を受けたこと。二月二日に胃腸病院の神保孝太郎《じんぼかうたらう》博士の診察を受けたこと。次いで佐藤|三吉《さんきち》博士の診察を受けたこと。今はすでに重篤の状態にあることをも云つた。そして、赤彦門下の三人の女流は岡|麓《ふもと》さんと一しよに明日|信濃《しなの》に立つこと。そのほかの諸君は病気の邪魔になるから行かぬことを約したのであつた。同
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング