う駄目に相違ないといふ予感が強く僕の心を打つたが、女中は、守屋喜七《もりやきしち》さんの宿つてゐられることを告げたので、四人は守屋さんの部屋になだれるやうにして入り込んだ。守屋さんは、赤彦君の息のまだ絶えないでゐることを語られた。赤彦君の親しい友である守屋さんは病をおして長野から来てゐたのである。
 四人は女中をせきたてて、人力車《じんりきしや》を雇つてもらつた。雪の降るなかを人力車は走るけれども、それがもどかしい程遅い。高木村の入口で人力車から降りて坂をのぼつて行つた。息を切らし切らし家に著いた時には、もう雪は小降りになつてゐた。入口から直ぐの部屋には昨夜来赤彦君の枕頭《ちんとう》をまもつた人々の一部が疲れて眠つてゐる。森山|汀川《ていせん》君は直ぐ僕たちを赤彦君の病室に導いた。
 赤彦君は今は仰臥《ぎやうぐわ》してゐる。さうして、純黄色になつた顔面から、二日前に見たときのやうな縦横無数の皺が全く取れて、そのために沈痛の顔貌《がんばう》は極く平安な顔貌に変つてゐる。そして平安な息を続けてゐるけれども、意識はすでに清明ではなかつた。時々眼を半眼に開き、瞳《ひとみ》はもはや大きくなつてゐた。
 主治医の伴さんは、きのふ以来帰宅せずに全く赤彦君の枕頭を護《まも》られたのであつた。伴さんはかういふことを語られた。赤彦君はきのふ迄《まで》は、いつもどほり神経痛のための注射を要求されたさうである。『今日もやはり注射をしませうか』と問うたとき、『もちろん』と答へたが、それが非常に幽《かす》かなこゑであつたさうである。今までは神経痛のために仰臥することが出来ずに、おほむね炬燵《こたつ》に俯伏《うつぶし》になつてゐたのが、昨夜以来は全く仰臥の位置の儘《まま》だといふことである。きのふ以来、急に脈搏《みやくはく》が悪くなるので、虚脱の来るのを恐れたといふことである。さういふことを伴さんは語られた。昨夜十二時過ぎに状態が悪くなつて、みんなが枕頭につめかけたのであつたが、それが少しく持直して今日に及んだのであつた。
 藤沢古実君はかういふことを話して呉れた。きのふ、岡麓さん、今井邦子さん、築地藤子さん、阪田幸代さんの見えられたとき、『先生。岡先生がおいでになりました』といふと、赤彦君は辛うじてかうべを起して、銘々に点頭《うなづ》いたさうである。そして『ありがたう』といつたが、それが恐らく
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