あるが、『双葉山の敗因の根本が体力問題に発する錯覚とヂレンマの混生児であつたことは確かである』といふのが其結論で、取り口の評については、『十三日間の双葉山をみると初めは自信のある取口を示し、安芸ノ海に敗れてからはいささか自信がゆらぎ、両国に敗れてからは完全に自信を失ひ、鹿島洋に敗れては精神的ヂレンマに陥り、玉ノ海に一敗を喫してから漸く或る一つの境地に入り得たといふ複雑な過程を踏んでゐるのである』といふ具体的な評もあつた。
次にアサヒグラフ(二月一日号)に、藤島取締の談が載つてゐたが、実際の技の評のしまひに、『つまり双葉山の如き六十九連覇と云ふ無敵の進軍を続けて来たものが、土俵に上る時は、ひたすら相手を倒す攻撃策のみ頭に浮べて相対するので、今度の如く一度黒星を付けられ、しかもワンワと騒ぎ立てられれば、気分的に腐るのは云ふに及ばず、今まで考へ続けて来た攻撃戦法よりは却つて防禦策に頭を悩し乍ら土俵に現れるものである。従つて従来のやうな思ひきつた業をかけ得ず、所謂固くなり過ぎたと云ふのが、双葉山の心理なのではないだらうか』と云つてゐる。批評の大概の結びは、さういふ心理的な悟道めいたことになるが、私には、やはり実際の技《わざ》の批評の方が有益である。『右四ツとなつた刹那の安芸の体勢、つまり頭を双葉の胸にあてがつて右廻しを引きつけて』云々といふあたりである。さうして、どうしてさういふ体勢になつたか、その肉体的関係の批評の方が有益なのである。
その他の批評には、お極りの人生行路上の教訓などを附加へてあるのが多かつた。即ち双葉山が相撲に負けたのを種にして、大に悟つたと自覚して、好い気持になつてゐるのであつた。けれども私等は、相撲の批評は、相撲実技の批評の方がおもしろくもあり、その方が確かだとおもふのである。
もう少し、『技』についての評を附加へるなら、双葉山が安芸ノ海に敗れた時、双葉山は右下手を打つたのは無謀だとか、掬ひ投げをやつたのが粗雑だとか、さういふ批評が多かつた。然るにそれについて藤島取締は次のやうに評してゐる。『双葉山が勝をあせつて掬ひ投げに出たといふ報道もあつたが、彼の如き優れた相撲道の天才が、この不利なコンデイシヨンの下にあつて、この粗暴に近い強引策を用ひたとは考へられない。これは確に双葉が自己の悪い体勢を挽回せんが為にやつたものとのみ考へられる。この掬ひ投げを
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